


「もしも、もしもの美髪師・仙虹フエン」
著:吉村りりか画:蓮本リョウ
――最近、庶廓で仙虹が施術する美髪専門店なるものが流行っているらしい。
そんな噂を聞いた燕來は、一人渋面を作っていた。
(仙虹が、施術する、だと……?)
燕來が一番最初に感じたのは、胡散臭さだった。仙虹とは、伝説上の存在。人前に簡単に姿を現すとは思えず、だから此度現れた美髪専門店の仙虹も偽物だろうと考えたのだ。
(子供の頃、兄上も仙虹に睫毛をフサフサにしてもらったことがあったが……あれもどうせインチキだったに決まっている)
仙虹という存在を、燕來は信じていなかった。だから、どうせ新しいその店も仙虹を名乗る不届きものがやっているのだろうと思いながら、仕事に取り掛かる。
けれど、しばらくして燕來は席を立った。どうしても、仙虹が施術する美髪専門店なるものが気にかかったからだ。
(もしも胡散臭い店だったら、取り締まる必要があるからな。……少し、様子を見に行くか)
それに、と燕來は自分の髪を見下ろす。最近仕事が忙しく寝不足気味なせいか、毛先が傷んでいた。それを、燕來は密かに気にしていたのだ。
(……念の為、髪を見てもらうか。もし本当の仙虹などというものがいるならば、だがな)
そうして噂を頼りにとある店を訪れた燕來は、店の前で呆然と立ち尽くしていた。
(本当に、ここでやっているのか……?)
そこは、蝶佼花と呼ばれる店だった。ここを間借りしてやっているらしいと聞いたものの、本当かどうか分からず様子を伺う。
それでも思いきって店の中に入ってみたところで、またしても燕來は驚いた。店の中には誰もいなかったからだ。
「なんだ、誰もいないではないか。流行っているという噂も嘘か」
と呟いた、その時だった。
「ようこそ」
部屋の奥から、一人の男が姿を現す。その人こそ、美髪専門店を開いたと言われる仙虹――フエンだった。
気配もなく現れた男に、燕來は剣の柄に手をかけながら慌てて振り返る。そこで、またしても彼は呆気にとられた。――すごい髪ツヤだったからだ。
「なっ! どうしたらそんなツヤが!?」
思わず声を上げた燕來に、フエンがにこりと微笑む。そして、ツヤツヤな髪を、そっと掻き上げた。
「そろそろいらっしゃると思って、人払いしておきました。今日は特別に貸し切りで施術しましょう。貴方からは懐かしい香りがしますからね」
「……懐かしい香り?」
「いえ。こちらの話です。……それでは、早速髪質を見てまいりましょう。どうぞこちらに」
フエンに促されるまま、燕來は椅子に座った。まだ半信半疑ではあったが、このツヤツヤの髪を見てしまった以上、試してみる価値はあるだろうと思ったのだ。
フエンは、燕來の髪をじっと見つめた。触れるわけでもなく、ただ見つめているだけなのに、何かを見透かされているような気がする。
「……多くの重圧や心労をお抱えですね」
やがて、フエンはぽつりと呟いた。その言葉に、燕來が驚いて振り返る。
「わかるか。……そうなんだ。実は最近、仕事が立て込んでいてな。あの方のお側でお仕えするのは光栄なことだが、責任も重大だ。それに、色々と……心配事もあって」
燕來が珍しく、素直に胸の内を明かす。そんな燕來に、フエンは穏やかに微笑みながら頷いた。
「なるほど。……心労は、髪に表れるものです。貴方の髪は、貴方の心の状態を映し出している」
「そうなのか……」
「ええ。このままでは、髪は痛むばかりです。――良ければ、私が施術をいたしましょう」
フエンの提案に、最初疑っていたのも忘れて、燕來は頷いた。
「……頼む。あいつの前では、いつもサラサラでいたいからな」
「ふふ、あいつ、ですか」
フエンが何かを察したように笑う。
「大切な方がいらっしゃるのですね」
「…………」
フエンの指摘に、燕來は黙ったまま僅かに頬を赤くした。そんな彼の様子を見て、フエンが腕まくりをする。
「では、始めましょう」
フエンは燕來の後ろに立った。
そして――フエンはただ、手を燕來の髪の上にかざした。
櫛で梳くわけでもなく、何か塗るわけでもなく、ただかざすだけだ。それだというのに、何故か風のようなものが湧き起こる。かと思うと、淡い光が燕來の髪を包み込んでいった。
「これは……」
燕來が驚いて目を見開く。髪が、みるみるうちにツヤツヤになっていくのが分かった。毛先の傷みも消えて、さらさらとした手触りになっていく。
そして一瞬の後に鏡を見ると、そこには信じられないほど美しい髪になった燕來の姿があった。
「本当に、仙虹だったのか……」
「ふふ、信じていただけましたか?」
「ああ……これは、本物だ」
燕來が自分の髪を触って、感動したように呟く。
「どのくらい持つのだ?」
「それは、貴方の心労次第です」
フエンは、静かに答えた。
「心が穏やかであれば、長く保たれます。しかし、心労が重なれば、また髪は傷んでいくでしょう」
「そうか。……では、またすぐ世話になりそうだ」
公子太傅でありながら玖家当主である燕來には心労は多い。これから待ち受ける仕事の数々を思い出してため息をついた燕來に、フエンは柔らかく微笑んだ。
「では、またのお越しをお待ちしております」
「ああ。……礼を言う」
ツヤツヤサラサラの髪を揺らしながら、燕來は店を後にした。歩くたびに、髪がさらさらと音を立てる。
(まさか、本物の仙虹がいたとはな。だが……たまには、こういうものも悪くない)
帰りながら、そっと自分の髪に触れてみる。絹のような触り心地になっている髪質に、来る前と比べて心の内が晴れやかになっていることに気づいた。
(なるほど、これは噂になるわけだな)
自分を大切にするということは、心労を僅かでも軽くする効能があるらしい。それを教えるために、仙虹ともあろう人がわざわざ店を開いたのだろう。
これまで仙虹の存在を信じたことはなかったけれど、その存在は伝承にあるものと変わらない。人を助け、導く存在は確かにいるのだと、燕來はこの日初めて仙虹を信じることができたのだった。
一方、一人残されたフエンは、窓の外を見つめていた。
去っていった燕來の奥に誰かを見るように、彼が目を細める。
「彼女を想う気持ちが、髪にまで表れている、か。ふふ、面白い」
フエンは自分の髪を撫でながら、そっと目を瞑った。その瞼の裏には、一人の少女の姿がある。
「……お前を想う者は、たくさんいるようだね。……私も、その一人だ」
囁き、そして小さく笑った。
「お前を取り戻したら……本格的に美髪専門店を開いてみようか。お前も、きっと喜んでくれるだろう?」
サラサラになった髪を掻き上げながら、フエンは空を見上げた。
遠い時を越えて、愛しい人とまた出会う。その日を楽しみにするように――。





