「真夜中の日新館」

月の明るい夜だった。
おかげで、灯りがなくても周囲の様子が分かる。
おかげで、灯りがなくても周囲の様子が分かる。
「虎之助さん。手をどうぞ」
塀の上から手を伸ばすのは飯山貞吉。数え年でふたつ下の後輩だが、すでに大人より背が高い。門扉を閉ざした日新館の塀に軽々と登って、私が追いつくのを待っている。高い背と長い足の成せる業 だ。
「よ、っと……」
人並みの体格である私は貞吉の手を借りて、難儀しながら塀をよじのぼる。
門限を過ぎて無許可で侵入するなんて。後ろめたさに心の臓が強く打つ一方で、忍びのような芸当だと少しだけ楽しんでいる自分もいた。
高い塀の上から眺める日新館は静かで、ほかに人の気配はない。月明りに青白く浮かび上がる学舎が庭を囲んでいた。昼間の賑わいを忘れた様子で妙によそよそしくて、いつもよりずっと広く見える。
門限を過ぎて無許可で侵入するなんて。後ろめたさに心の臓が強く打つ一方で、忍びのような芸当だと少しだけ楽しんでいる自分もいた。
高い塀の上から眺める日新館は静かで、ほかに人の気配はない。月明りに青白く浮かび上がる学舎が庭を囲んでいた。昼間の賑わいを忘れた様子で妙によそよそしくて、いつもよりずっと広く見える。
「こんな時間に日新館へ来たのははじめてだ。……塀に登るなんてことも」
私の言葉に、貞吉は意外そうに「そうなんですか」と言った。ためらいなく塀から飛び降り、軒下の影のなかを選んで歩く彼の背中を追う。その迷いない足取りから夜間の忍び込みはこれが初めてではないと窺えた。けれど、少しも悪びれたところがない。
私はというと、胸の内で膨らむ罪悪感を無視できずにいた。
ここへ来るまでは、私がこの目で確かめてやろうと思っていたのに。やはり教師や誰かに事情を話すべきだったのではないかと、何度目かになる自問を繰り返す。
――経緯はこうだ。
ここ最近、日新館では『妙な物音がする』『不気味な声が聞こえる』という噂が絶えない。時刻は門限間近の夕暮れどき。かすかに聞こえる恨めしそうな唸り声。それが幽霊や妖の類ではないかと話題になって、下級生たちは怯えてしまった。私の口から『幽霊などいるはずない』と説いてもあまり効果がない。
そのとき『確かめてきます』と請け負ったのが貞吉だったのだ。
私はというと、胸の内で膨らむ罪悪感を無視できずにいた。
ここへ来るまでは、私がこの目で確かめてやろうと思っていたのに。やはり教師や誰かに事情を話すべきだったのではないかと、何度目かになる自問を繰り返す。
――経緯はこうだ。
ここ最近、日新館では『妙な物音がする』『不気味な声が聞こえる』という噂が絶えない。時刻は門限間近の夕暮れどき。かすかに聞こえる恨めしそうな唸り声。それが幽霊や妖の類ではないかと話題になって、下級生たちは怯えてしまった。私の口から『幽霊などいるはずない』と説いてもあまり効果がない。
そのとき『確かめてきます』と請け負ったのが貞吉だったのだ。
「俺ひとりでも良かったんですけどね。虎之助さん、規則破りなんてしていいんですか」
噂の場所へ向かいながら、気楽な調子で貞吉が言う。
「……お前ひとりでは何かあったとき心配だ。危険がないとも限らない。誰かついていたほうがいい」
「心配してくれてありがとうございます。虎之助さんは真面目ですね」
こっちを振り返って笑う。大人びた顔立ちは笑うと少しだけ年相応にあどけない。
「幽霊なんて本当にいるんでしょうか。虎之助さんはどう思います?」
「この目で見なければ信じられない。だから、いないとも断言できない」
「でも昼間は『幽霊なんていない』って後輩に説いてたじゃないですか」
「あれは、彼らが怯えていたからつい……」
「優しいですねー。俺は、幽霊のこと信じます。いたほうが楽しい気がするから」
「楽しいだろうか……」
「だって、いいじゃないですか。死んでからでも、また会いたい人に会いに行けるかもしれないんですよ」
「そのようなこと、考えたことがない」
やりたいことがまだたくさんある。学びたいことも、たくさん。
何も成さないうちから死ぬことなんて考えられなかった。
日新館では、剣・槍・弓・馬を基本とした武芸、儒学をはじめとする複数の科目、礼儀作法、水練まで――武士として恥じない男になるために多くを学ぶ。
行く末、会津藩のために役に立つ働きをしたいと望むのは当然のこと。
何も成さないうちから死ぬことなんて考えられなかった。
日新館では、剣・槍・弓・馬を基本とした武芸、儒学をはじめとする複数の科目、礼儀作法、水練まで――武士として恥じない男になるために多くを学ぶ。
行く末、会津藩のために役に立つ働きをしたいと望むのは当然のこと。
「今も多くの会津藩士が京を守っている。彼らのように、いずれ私もこの日新館で学んだことを役立てたい」
藩主様は京都守護職を任じられ、京では多くの会津藩士が都を守って戦ったという。藩士の武勇を伝え聞くたびに、胸の内で熱く血潮が滾った。
「貞吉だって志すものは同じだろう」
「もちろんです。……でもまあ、先のことなんて分かりませんけど」
貞吉の答えに内心で驚く。貞吉は、それ以外の将来を考えたことがあるのだろうか。
私には想像もつかない。
私には想像もつかない。
「この辺ですよね」
ふと足を止め、貞吉が道場の縁の下を覗き込む。ここが噂の場所だ。
「暗いな。やはり灯りを持ってくればよかった。……!」
かすかに聞こえたのは奇妙な音。不吉に震える唸り声。
確かに何かがいる。暗がりの奥、ふいにきらっと光る二つの目――
確かに何かがいる。暗がりの奥、ふいにきらっと光る二つの目――
「……猫ですね」
貞吉が汚れるのも構わず腹ばいになって様子を窺う。
「なるほど、お腹に子がいるんです。それで気が立っていたと」
「そういうことだったのか……」
暗闇に目が慣れると、奥でうっすらと猫の影が浮かび上がった。
白い毛並みの小柄な猫だが、確かに腹が丸く膨らんでいる。全身に満ちた警戒心が伝わってくる。耳を後ろへ寝かせ、鋭い目でこちらを睨み威嚇していた。正体が分からなければ、確かにこの唸り声は奇妙に聞こえる。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。蓋を開けたら事実なんてこんなものだ。緊張が解け、気が抜けて脱力する。
白い毛並みの小柄な猫だが、確かに腹が丸く膨らんでいる。全身に満ちた警戒心が伝わってくる。耳を後ろへ寝かせ、鋭い目でこちらを睨み威嚇していた。正体が分からなければ、確かにこの唸り声は奇妙に聞こえる。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。蓋を開けたら事実なんてこんなものだ。緊張が解け、気が抜けて脱力する。
「明日、皆にも周知しよう」
「黙っててもいいんじゃないですか?」
「だが……」
「子猫が生まれたら、そのうちどこかへ行きますよ。みんな怖がって遠巻きにしていたほうが猫にもちょっかい出さないでしょうし」
体を起こして土を払う。こちらを見下ろす顔に、日々の楽しみを見つけた笑みを浮かべている。
「心配なら、ちょくちょく様子を見に来たらいいんです」
「……そうだな」
「幽霊じゃなかったのは残念ですけど」
「本気で幽霊を見つけるつもりだったのか」
「まあ、ちょっとは期待してました」
やっぱりまだまだ子供じみている。大人顔負けの体格に誤魔化されてはならない。
彼の容姿には大人さえも気圧される。だからこそ、私は年長者として貞吉に手本を見せよう。間違いや誤りがあれば公平に正し、無礼な振舞いは叱り、彼が大人になってから困らないようにしなくては。
彼の容姿には大人さえも気圧される。だからこそ、私は年長者として貞吉に手本を見せよう。間違いや誤りがあれば公平に正し、無礼な振舞いは叱り、彼が大人になってから困らないようにしなくては。
「これで用は済んだ。帰ろう、貞吉。遅くなると親御さんも心配するだろう」
「そこは心配いりません、兄上が上手く言ってるはずです。虎之助さんこそ大丈夫ですか?」
「……急ごう」
来た道を引き返す。空の高いところから、月が私たちを見下ろしていた。