「朝の餞別」

慶応二年九月 会津
またしばらく会津を離れる。その前に故郷の空気をたっぷり吸いたいと考えて、散歩に出かけることに決めた。目に映るものを懐かしいと思うと、会津を離れて暮らしていた数年の慌ただしさを実感する。
家を出てすぐ、ふと視界に黒い姿が映った。上背のある男だ。釣り竿を担いで魚籠を提げている。
またしばらく会津を離れる。その前に故郷の空気をたっぷり吸いたいと考えて、散歩に出かけることに決めた。目に映るものを懐かしいと思うと、会津を離れて暮らしていた数年の慌ただしさを実感する。
家を出てすぐ、ふと視界に黒い姿が映った。上背のある男だ。釣り竿を担いで魚籠を提げている。
「おはよう、宗十郎。これから釣りか」
宗十郎の家から川へ行く近道はほかにあるはずだ。それとなく様子を見に来てくれたらしい。私が公用方の任を解かれたとき、同じくして彼も護衛の役目を終えたはずだが、頼もしいことだ。
「私も一緒に行っていいかな」
「好きにしたらいい。だが……」
「荷造りはもう終わったよ」
明後日の朝には会津を発つ。支度はもう済んでいた。
宗十郎は黙って歩きだす。その後ろをついて歩いた。
川に着くなり釣り場を検討し、宗十郎は適当な岩に腰かけて竿を川面へ垂らす。
宗十郎は黙って歩きだす。その後ろをついて歩いた。
川に着くなり釣り場を検討し、宗十郎は適当な岩に腰かけて竿を川面へ垂らす。
「今日の目当ては?」
「落ち鮎が釣れる」
「ああ、いいね」
私も邪魔にならないところに落ち着いた。川の流れる音に耳を傾ける。天気が良いとは言いがたい空模様だが、ときおり雲の切れ間から日差しが注いだ。それがなんとも心地よい。
馴染み深い風の匂いに心が安らぎ、つい懐に手を伸ばしかける。詩文が浮かんだときにいつでも書きとめるため懐紙と矢立を持ち歩いていた。が、今はまだ手に取らず、ただ感じるままに景色を眺め、音を聞き、香りを楽しんだ。
宗十郎の釣り糸は動かない。
彼もなにか思索に耽っているのではないかと思うと声をかけるのは憚られる。かといって、この沈黙が気づまりだというわけでは決してない。わざわざ話題を探すこともなく、ただ同じ時を共にする。この過ごしかたを気に入っている。
ふと水音が立つ。宗十郎は竿を引いたが獲物の姿は糸の先に見当たらない。惜しがるでもなくまた針に餌をつけて、川面へと糸を垂らす。意外と言っては失礼だが、釣りをしていて苛立つ姿は見たことがない。だが、今日はいつになく肩に力が入っている。
馴染み深い風の匂いに心が安らぎ、つい懐に手を伸ばしかける。詩文が浮かんだときにいつでも書きとめるため懐紙と矢立を持ち歩いていた。が、今はまだ手に取らず、ただ感じるままに景色を眺め、音を聞き、香りを楽しんだ。
宗十郎の釣り糸は動かない。
彼もなにか思索に耽っているのではないかと思うと声をかけるのは憚られる。かといって、この沈黙が気づまりだというわけでは決してない。わざわざ話題を探すこともなく、ただ同じ時を共にする。この過ごしかたを気に入っている。
ふと水音が立つ。宗十郎は竿を引いたが獲物の姿は糸の先に見当たらない。惜しがるでもなくまた針に餌をつけて、川面へと糸を垂らす。意外と言っては失礼だが、釣りをしていて苛立つ姿は見たことがない。だが、今日はいつになく肩に力が入っている。
「もしかして、まだ怒っているのか」
「俺は、会津藩の決定には失望している。あんたは腹が立たないのか」
「仕方ないさ。会津藩も一枚岩ではない」
私に信頼を寄せ、公用方に取り立ててくれたご家老が亡くなった。後ろ盾だった彼亡き今は、私の立場を守る者はいない。
実際、それからすぐ公用方の任を追われた。蝦夷行きを命じられたのはつい昨日のこと。次の仕事は日新館の教師だろうかと気楽に構えていたところに、寝耳に水だ。
藩内で出過ぎた行いをする者を遠ざける例は、過去にもある。旅支度の時間も十分には与えられず、急で無茶な命令だった。そう理解はしているが、今はもう受け入れている。抗って覆る状況ではない。
実際、それからすぐ公用方の任を追われた。蝦夷行きを命じられたのはつい昨日のこと。次の仕事は日新館の教師だろうかと気楽に構えていたところに、寝耳に水だ。
藩内で出過ぎた行いをする者を遠ざける例は、過去にもある。旅支度の時間も十分には与えられず、急で無茶な命令だった。そう理解はしているが、今はもう受け入れている。抗って覆る状況ではない。
「あの場で君が私より先に怒ってくれたおかげで平常心でいられた」
「かえってあんたの立場を悪くしたんじゃないか」
「ありがたいよ。味方になってくれる者がひとりでもいると心強い。……しかし、蝦夷地か」
七年前に西国巡歴の藩命を受け旅をした。あのときも遠くまで来たものだと驚いたが、まさか今度は北の果てまで向かうことになるとは。人生は分からない。
「蝦夷の冬は厳しい。用心してくれ」
「ありがとう。不安がないとは言い切れないが、見たことのない景色を見るのはそう悪いものでもないだろう」
「あんたは気楽だな」
「悪く考えて落ち込むよりは上等な時間の使いかただろう?」
「……」
宗十郎は小さく息をついた。心配してくれているが、呆れてもいるのだろう。
会話を続けるつもりはないらしく、また釣り糸へ神経を向ける。彼はまだ憤っているが、それを表に出すまいと努めている様子だ。
私からも言うべきか少し迷う。彼ともしばらく会えないと思うと、伝えておきたかった。
会話を続けるつもりはないらしく、また釣り糸へ神経を向ける。彼はまだ憤っているが、それを表に出すまいと努めている様子だ。
私からも言うべきか少し迷う。彼ともしばらく会えないと思うと、伝えておきたかった。
「私も君が心配だよ」
宗十郎は、以前は会津のために力を尽くす武士だった。だが今は仇討ちのために剣を握っている。
禁門の変を境に彼は変わった。彼を支えていたものをあの日失って、いまだ膝をついたままでいる。私にはそう思えてならない。
禁門の変を境に彼は変わった。彼を支えていたものをあの日失って、いまだ膝をついたままでいる。私にはそう思えてならない。
「……あんたは自分のことだけ考えていればいい」
川面を眺める横顔が俯く。今少し目を細めたのは、雲間から差す朝日のせいか。痛みに顔をしかめたように見えたと言っても彼は認めないだろう。護衛の任務を抜きにしても、彼は良き友人だ。心配くらいはさせてほしい。
ふいに釣り糸が張って、宗十郎は何食わぬ動作で魚を釣り上げる。鮮やかなお手並みに感嘆する私をよそに再び釣り糸を川面へ垂らす。
ふいに釣り糸が張って、宗十郎は何食わぬ動作で魚を釣り上げる。鮮やかなお手並みに感嘆する私をよそに再び釣り糸を川面へ垂らす。
「見事だな。見ていて楽しい。私もまた釣りをしてみようかな」
「やめておいたほうがいい。あんたには向いていない。餌を恵んでやるだけだ。以前も――」
ふと宗十郎の口元が歪む。思い出し笑いだ。
以前、宗十郎に付き合って釣りをした日のこと。私は魚を待つあいだについ詩作に耽ってしまう。ああでもないこうでもないと口の中で言葉を転がしながら、釣り竿の存在は次第に意識の外へと飛んでしまう。気づいたときには針の先に餌はなく、周辺を泳ぎ去る魚影だけが見えた。
以前、宗十郎に付き合って釣りをした日のこと。私は魚を待つあいだについ詩作に耽ってしまう。ああでもないこうでもないと口の中で言葉を転がしながら、釣り竿の存在は次第に意識の外へと飛んでしまう。気づいたときには針の先に餌はなく、周辺を泳ぎ去る魚影だけが見えた。
「あんたは完全に魚に舐められていただろう」
「参った。反論できない」
魚が釣れるかどうかなど途中でどうでもよくなってしまうのだ。確かにこれではいけない。
宗十郎の笑みはすぐに見間違いだったかのように潜み、今はまた感情の伺えない顔で糸の先を眺めている。
川面が朝日を反射し輝いていた。
目が眩む輝きを、それでも目に焼きつける。
宗十郎の笑みはすぐに見間違いだったかのように潜み、今はまた感情の伺えない顔で糸の先を眺めている。
川面が朝日を反射し輝いていた。
目が眩む輝きを、それでも目に焼きつける。
「……故郷の眺めともしばしお別れか。旅立ちを幾度経験しても名残惜しい」
「あんたは、蝦夷から戻って来られるのか」
「さあ。必要があればまた呼び戻されるだろう」
きっと、その日は決して遠くない。私にはまだ使命がある。
宗十郎はまたため息をついた。都合のいいことだと呆れているのだろう。
宗十郎はまたため息をついた。都合のいいことだと呆れているのだろう。
「……鮎を焼く。あんたも食っていけ」
魚籠を半ばも満たさぬうちに帰り支度をはじめた。彼なりに見送ってくれるつもりらしい。
「ありがたい。ご相伴にあずかろう。君が焼いてくれる魚は美味い」
「いい酒もある」
「朝っぱらから酒盛りか。罰が当たりそうだ」
「たまには悪くないだろう」
気づけば雲が晴れていて、真っ青な空が広がっている。秋にしては暖かい陽射しが、過酷な冬に向かう旅路への何よりの餞別だと感じた。
トップへ戻る