ルチア
(ついに着いた……ここがエルディール王国……!)
淡い潮の香りに交じって、異国の匂いがする。
未知への期待に心が躍った。
ルチア
(外国に来たのは初めて……!)
建物も街並みも、なにもかもがサナン王国とは違っているような気がして私はきょろきょろと周囲を見渡した。
ルチア
(サナン王国と違って木造の家は少ないんだな。
本で見た通り石造りの建物が多いんだ。色使いもデザインも素敵……!)
すると、ふいに後ろから誰かがぽん、と私の頭に手を乗せた。
イザヤ
「おーい、そんなおのぼり丸出しじゃ悪いヤツに狙われるぞ?」
ルチア
「! ……イザ兄!!」
イザヤ
「久しぶり! よく来たな、ルチア。ようこそエルディール王国に。ってな」
異国で知っている顔と会えた安堵感に、思わず頬が緩む。
ルチア
「ふふ。変わらないね、イザ兄」
イザヤ
「お前もな、って言っても前に会ったのは……去年の冬だったか。留学生試験に受かったお祝いの時だな」
イザヤ
「まあ、俺はお前なら合格できるって思ってたけどさ。あっちにうちの馬車を待たせてるから、乗ってくれ」
ルチア
「うん。ありがとう!」
彼はイザヤ・クライン。私よりひとつ年上の幼馴染だ。
と言っても、彼はエルディール王国民だから頻繁に顔を合わせていたわけではない。
子供の頃、彼の両親が営んでいるクライン商会の事業の関係で、イザ兄がサナン王国に滞在していた時、ひょんなことから友達になったのだ。
ルチア
(それからは、イザ兄たちが年に何回かサナン王国に滞在する時には、家族ぐるみで仲良くしてもらっているんだよね)
イザヤ
「俺の顔をじっと見てどうした? 何かゴミでも付いてるか…?」
ルチア
「ううん! そうじゃなくて、頼もしい幼馴染がいてくれてよかったなって思っていたところ」
イザヤ
「はは、なんだそれ。もうホームシックか?」
ふいに、どこからか猫の鳴き声が聞こえてきて、あたりを見回す。
ルチア
(そういえばアニスが学校の敷地内には結構いろんな動物がいるって言ってたっけ)
学校で飼っているわけではなく、広大な敷地なので、自然と小動物たちが住みついてしまったのだそうだ。
生徒に害はないと判断されたため、学校側からは許容されているらしい。
ルチア
「えっ……」
すると、鳴き声と一緒に今度はフルートの音色が風にのって聞こえてきた。
ルチア
(……綺麗な音色――)
サナン王国でも、お祭りのときには楽器隊がフルートを吹いたり太鼓をたたいたりして街を盛り上げていた。
あの楽しげな演奏と比べると、耳に届く音色はなんだか儚げで寂しそうに聞こえるけれど……。
ルチア
(誰かが、近くでフルートを吹いているのかな)
ルチア
(ん? よく聴いてみると……フルートの音色に合わせて、猫が歌ってる……?)
そんなことってあるのだろうか。
興味深い音色と歌声は茂みの向こうから聞こえてくる。
ルチア
「どのみち、ここを突っ切れば講堂への近道だよね」
ルチア
(この向こうに、フルートの音色の主と、歌う猫がいるのなら……見たい)
ルチア
「おかしいな……。このあたりから聴こえたと思ったんだけど……」
フルートの音を辿って移動する途中でその音色は途切れてしまった。
見当をつけた場所を見回しながら歩いていると――
ルチア
「わっ!」
足元の石につまずき、私はバランスを崩す。
瞬間、倒れる衝撃にそなえて、目をつぶったけれど――
ルチア
(……いた……くない?)
体の下に、柔らかくて温かい感触がある。
そっと瞼を持ち上げると……。
ルチア
(えっ……人!?)
ラルス
「…………はぁ。サイアク」
ぼそりと言って、彼は私を睨みつける。
ラルス
「オスタラも呆れて行っちゃっただろ。あんたが邪魔するから」
ルチア
「ご、ごめんなさい……! 人が寝ているとは思わなくて」
ルチア
「……って、『オスタラ』?」
ラルス
「俺の猫」
ルチア
「ああ、猫の名前……」
ラルス
「っていうか、重いからさっさとどいて」
ルチア
「あっ……ご、ごめんなさい!」
今日は、謝ってばかりだと思いながら、私は慌てて起き上がり、彼から離れる。
上半身を起こすと、彼は私が触れた部分が汚らわしいとでもいうように、自分の制服を手ではたいた。
ルチア
(木立の中を走るのって気持ちいい。
サナン王国にいた時も走り込みはしていたけど、こっちでも楽しく続けられそう)
そんなことを考えながら、走っていると……。
ルチア
(ん? 何あれ……煙??)
数百メートル先のほうで、白い煙がのぼっている。
眺めていると、今度は火柱が吹きあがった。
ルチア
「も、もしかしてあれって火事じゃない!?」
サナン王国にいた時、山火事があったことを思い出す。
とにかく、燃え広がる前に迅速な消火が必要になるのだとお父さんが言っていた。
ルチア
(ここからあの場所まで行く間にも火が燃え広がってしまう。なら、今私がすべきことは――)
ルチア
「思いっきり大きめに! 【水 の 守 護】――」
ルチア
(えっ……なに今の……?? いつもの魔法よりすごい威力が出たような……)
びりびりと痺れるような反応に、思わず自分の両手を見つめてしまう。
ルチア
(なんだか、発動の感覚が普段と違った……)
ルチア
「って、それどころじゃない! 早く現場に行って確認しないと……!」
火柱があがっていた場所に到着すると、もうすっかり火は消えていた。
そして、私が見たものは――
リカルド
「……なんで、俺が……こんな目に……」
ルチア
「あ、あの――さっき、ここで火事、ありましたよね?」
リカルド
「――ない」
ルチア
「えっ? でも、火柱があがって燃えて……」
リカルド
「火事なんてものはない! それは、俺の火属性魔法だ!」
ルチア
「じゃ、じゃあ、あなたが放火犯――!?」
リカルド
「誰が放火犯だ! 魔法の使用が認められてる演習場で魔法を使って何が悪い!
説明できるものなら説明してみろ!!」
ルチア
「…………。魔法の使用が、認められてる演習場?」
もしかして。もしかすると。
ここは広大な魔法の演習場で、私は彼の訓練を……邪魔してしまった?
ルチア
「でも……あの……火が燃え広がると危ない……ですよね……?」
リカルド
「第二演習場には、事故が起こらないように一定時間経つと魔法が相殺される結界が張ってある。
だから火も消えるし火事になるなんてことはない」
ルチア
「……」
呆然と立ちつくす私を尻目に、彼は魔法を使ってさっと自分の服を乾かすと、訝しむような視線をこちらに向けた。
リカルド
「まったく、この学校の生徒のくせにそんなことも知らないとはどういうことだ?」
アレクセイ
「君は俺のこと良いほうに見すぎ!
ただ俺は、出来の悪いちゃらんぽらん王子で、古代の謎や不思議が好きってだけ」
アレクは私に顔を近づけると、唇の端を上げてにっと笑った。
アレクセイ
「だから、君を見ていてもワクワクする。だっていろいろ不思議だからね?」
ルチア
「異国から来た留学生だから?」
アレクセイ
「それと、動物に変身しちゃうし」
ルチア
「うっ……たしかにいろいろ不思議かも、私の存在……」
アレクセイ
「あははっ、冗談。
君がもし留学生じゃなくて、『呪い』がなかったとしても、君はいつも予想外で一緒にいると楽しいよ」
ルチア
「私、予想外なんだ?」
アレクセイ
「うん。君の行動はいつもそう」
楽しそうにアレクが言う。
アレクセイ
「カフェで噂話する人たちに怒ったり、なくした手袋をどこからか見つけてくれたり、かと思えば今度はダンスコンテストで勝負するって言いだしたりさ」
アレクセイ
「それも、勝負を通して友達になるんだ、なんて。
……君といるといつも、考古学の本を読んでいるときと同じ気持ちになるんだ」
ルチア
「……同じ気持ちってどんな?」
アレクセイ
「……もっと深く、知りたくなるってこと」
私を見つめながら、アレクがゆっくりと顔を寄せる。
謎めいた瞳にとらえられると、魔法がかかったように動けなくなってしまう。
ふっと、温かな吐息がかかったかと思うと、アレクは私の頬に軽く唇を触れさせた。
アレクセイ
「……」
ルチア
「……!」
ルチア
(今……キス、されたんだよね)
感触と熱が、肌を通して伝わってきて、心臓の音が激しくなる。
驚いてなにも言えないでいる私に、アレクは楽しそうに目を細めた。
アレクセイ
「さて……寒くなってきたし、そろそろ部屋に戻ろうか」
何もなかったようにあっさり言うと、アレクは手すりから手を離し、私に背を向けて部屋のほうへと歩き出す。
唐突に今の自分の気持ちをおいてきぼりにされたような気がして、私はゆっくりアレクを振り返った。
ルチア
(今のキスってどういう意味……?)
ルチア
(友達としての親愛の印? それとも、違うもの……?)
訊きたいけれど、なぜか訊くのが怖くて。
ルチア
「う、うん。そうだね!」
夜風と一緒に深く息を吸い込んで、私は胸にわきあがってくる想いを呑み込み、アレクの背中に、なんでもないような返事をした。
差分
切り替え
シオン
「父の手伝いで、子供に服薬を促す時にはよくこうしているんだ」
会長が、スプーンを私の口元へもっていく。
ルチア
(えっ……これは……会長が飲ませてくれるっていうことなのかな……)
つまりは子供扱い。
恥ずかしくなってためらっていると、会長はそんな私を見て、まだ薬に抵抗があるのかとさらに誤解したらしい。
シオン
「苦味は甘いゼリーでくるんでやれば、何も感じずに飲み込むことができる。さあ、口を開けて」
ルチア
(や、やっぱり飲ませてくれるんだ……)
自分で飲みますと告げようか迷ったけれど、会長が真剣な顔をしているので何も言えなくなってしまう。
シオン
「大丈夫。苦くないからそのまま飲み込んで」
口を開くとつるりとした触感のゼリーが舌に滑り込んできた。
私はそれをなるべく味わわないようにして飲み込む。
シオン
「……そう、よくできた。いい子だ」
一転して、柔らかく会長が微笑む。
小さな子供に言い聞かせるような対応だった。
ルチア
(会長の顔……近くて、ドキドキするな……)
シオン
「あ――すまない。つい、手伝いの時の癖で」
ルチア
「ふふ、いえ……。おかげで薬が飲めました。会長はきっといいお医者さんになりますね」
シオン
「……これでも練習したんだ。患者に安心感を与えるのも医師の務めだと父に言われてな」
ルチア
「笑顔の練習ですか?」
シオン
「そうだ。相手が子供の時限定だが。ついそちらのやり方に頭が切り替わっていたようだ」
子供を安心させるために、笑顔や話し方の練習をしている会長を想像したら、頬が緩んでしまった。
ふと気付いたように皿に視線を落として、会長はまたスプーンでゼリーをすくう。
シオン
「薬はまだ残っている、頑張ってもう少し飲んでくれ」
ルチア
「はい。あとは自分で――」
シオン
「……さあ、もう一度口を開けて。あと少しだ、頑張ろうな」
ルチア
(やっぱりまた子供への対応になってる……!)
これはもはや職業病の域かもしれないと思いながらも、会長に子供扱いされ、優しい声で呼びかけられると、胸の奥がくすぐったくなり、鼓動が速まるのを感じる。
スプーンが唇に触れると、間近で見守っていた紫色の瞳が細められる。
口の中がやけに甘く感じたのは、ゼリーのせいだけじゃないかもしれないと私はそんなことを考えていた。