特別室

動画Twitterセット店主の日記
10月11月12月1月2月4月

 弥島家に来てから色々とあったが、何が一番大変だったかと言えば、真っ先にりん子さんとのことが挙げられる。

「あんたって田舎臭いし生意気なのにうちの店の店主でしょ? 冗談じゃないわ!」

 そんな感じで数々の暴言を吐かれること数ヶ月、やっと店主の仕事にも馴染んできた頃。いつものように日の出と共に起床し、身支度を調えると台所で朝食の支度に取りかかっていた。戸が開いたので、私は振り向くことなく挨拶をする。

「恭介さん、おはようございます! 今朝も早いですね」
「恭介ならとっくに仕事に行ったわよ」
「えっ……?」

 料理をする手を止め振り向くと、そこには意外な人物が立っていた。

「め、珍しいですね……まだ陽が昇ったばかりですよ?」
「失礼ね。あたしだって朝には起きるわよ。まぁ、普段よりちょっと早いけど」

 ちょっとどころではないのだが、と心の中で呟く。普段のりん子さんは早くても朝食の支度が調った後か、皆が出掛けた後に起床していたからだ。

「……何か用でしょうか?」
「察しがいいわね。そうよ、このあたしが、あんたに用があって早起きしたの」

 そう言うと私の方につかつかと近付いて来て、作業台の上に券を一枚置いた。

「……これは?」
「そこに書いてあるでしょ?」
「志栄堂パーラー特別優待券、二品まで無料……?」
「運が悪いことに三枚あってね。得意客に配っているの。とにかくそういうことよ」
「あ、あの、どういうことでしょうか?」
「んもうっ、いいから支度しておきなさい! 店の挨拶が済んだら行くから! まったく、これだから田舎の子って鈍くさいし頭も悪いし嫌なのよ!」

 乱暴に戸を閉めてりん子さんが出て行く。残された私は券を再度確認した。
 今日は月曜、昼の挨拶を終えてしまえば開店時間まで間がある。志栄堂パーラーに行く時間は充分あるが、何故りん子さんが早起きをしたのか、それが分からなかった。

「……志栄堂パーラーの優待券か。朝早くから並ばないと貰えないらしいぞ?」
「そうなんですか?」

 朝食の時間、裕介さんから優待券のことについて教えてもらった。得意客に配っているものではなく、新メニューの宣伝として、不定期だが朝早くから配布しているそうだ。その不定期情報を何処かから聞きつけたりん子さんは、恐らく今朝早く券を貰いに行っていたのだろう。

「……こういう所はマメなんですね」
「ホント、俺もそう思うよ。家事は出来ないくせに無料とか限定とか、先着順とかそういう言葉がつくと、誰よりもやる気出すよな、りん子って」

 俊介さんの分析は正しいらしく、新聞を読みながら横で聞いていた幸介さんが黙って頷いていた。

 店での挨拶を終え、程なくしてきくちゃんが帰宅すると、待っていたとばかりに制服姿のままりん子さんに連れ出されてしまう。もちろん私も同行した。

「急がなくてもいいのに! 姉様、着替えた方が……」
「そんな時間はないのよ! 優待といっても物には限りがあるんだから! 田舎娘も早く来なさい!」
「は、はい……!」

強制的に誘われてりん子さんの後に付いて行く形となった。強制的ではあるが特に断る理由もないし、何よりあの志栄堂パーラーで、無料で食べられるのだ、この機会を逃す手はない。
 銀座を颯爽と歩くりん子さんの姿は生き生きとして見えた。自信に満ち、帝都の婦人というに相応しい。そんな風に眺めていると、あっという間に店の前に辿り着く。

「……何よこの人混み」

 志栄堂パーラーの店内は人混みでごった返していた。忙しなく動く女給に、待たされて苛ついている客達……何度か来たことはあったが、これだけの混み具合は初めてだ。

「お待たせしました。何名様でしょうか?」
「三人よ。これ、持って来たんだけど」

 ムッとした表情でりん子さんが優待券を見せる。

「もうしばらくお待ち下さい。本日は優待券をお持ちの人を優先してご案内しておりますが、既に何人もお待ちいただいている状態でして……」

 その言葉を聞き、私達は入口付近で立っている客達に視線を移す。最後尾に並んだとしても席に着けるのは十人以上後になりそうだ。

「姉様、どうするの……?」
「並べるわけないじゃない! 何よ、優待券があるから来たのに……席はもういいわ! 持ち帰りでも二品まで無料なんでしょ!? そうよね!?」
「はい! お持ち帰りの品でしたら、そちらの陳列棚からお選び下さい!」

 そそくさと女給が去るが、りん子さんは未だ怒りが収まらないようでぶつぶつと文句を言っている。

「店内で食べられないのは残念だけど、久し振りに銀座に出てこられたし、持ち帰って家で食べればいいし……」
「だよね。無料なんだから普段は食べない洋菓子にしようかなぁ~……何にするの?」
「私はシユウクリームにするわ。きくちゃんは?」
「この洋菓子にするわ。変わっているでしょ? でも二つとも食べられるかなぁ……別々のにする?」
「そうねぇ……皆さんや旦那様にも分けられたらいいんだけど。りん子さんは何にするんですか? ……あれ、りん子さん?」

 りん子さんの方を向くと姿がない。気配を感じて振り返ると、苛立った様子で腕を組み、私達を見下ろしていた。

「あんた達馬鹿じゃないの? この券はね、自分の為に使うものなの。何で他人の分まで面倒みなきゃならないのよ?」

 自分の家族を他人という台詞を聞いて、帝都に来た頃を思い出す。今でもあまり変わりはないが、元々お互い干渉し合わないし、言葉もあまり交わさない弥島家の人達に戸惑ったものだ。
 兎に角持ち帰り用に洋菓子を包んでもらった。結局三人ともシユウクリームを買うことになり、合計六個となる。何故そうなったのかと言えば……

「持ち帰るなら一番被害が少ないからよ。ケーキなんて持ち帰ってご覧なさいよ。箱の中でひっくり返って、買ったことを後悔するわよ?」

 きくちゃんに訊ねると、どうやら以前りん子さんが経験したそうだ。それ以来持ち帰りはしていなかったらしい。

「只今戻りました!」

 かけ声と共に玄関の戸を開ける。間もなく開店時間だ。私は急いで台所に向かい、買って来たシユウクリームを冷蔵機に放り込む。

「あっ、私のも入れておいて!」
「食べないの?」
「こういうのは食後でしょ? 美味しく食べるならお茶と一緒にゆっくり食べたいもの」
「うん、分かったわ。りん子さんはどうしますか?」
「もちろん私のも仕舞っておいてちょうだい。このシユウクリームのことは、イモ達には話さないでちょうだい。勝手に食べられるんだから」
「それはないかと……」

 反論するりん子さんに対し、適当な相づちを打ってその場をやり過ごす。いい歳をした大人がそんなことをするはずが……いや、ないとは言い切れない。

(念のために名前を書いておこう……)

 旦那様にお茶を運んだ後、夕飯の下ごしらえをしておこうと台所に立つ。そしてふと気になって冷蔵機の中を覗いてみると……

「あれ……? シユウクリームの箱が開いてる……?」
「そこに入っていた異物なら既に俺の腹の中だ」
「えっ? 惣介さんが全部食べちゃったんですか……!?」
「まさか。悪魔の名には触れられない」

 戸口に立った惣介さんは平然とした顔で言った。箱の中を確かめると、私の分ときくちゃんの分は既にカラになっており、りん子さんの分だけ手付かずだった。

「昼食を食べ損ねて腹が減っていたのだ。そいつの中を見ると志栄堂と書かれた同じ箱が三つ、しかも署名入りだ。一つは天と地が入れ替わったとしても、決して手を付けられる代物ではない。署名……ではないな、呪符のようなものと言えよう。そこで俺は……」
「わ、分かりました! とにかく食べちゃったんですね!?」
「そうなる」
「はぁ~……」
「ちなみに俺の夕飯は必要ない。あ、夜食は必要だぞ。忘れるな」

 何事もなかったかのように惣介さんは台所を後にした。仕事が終わってからの楽しみに取っておいたのだが、無くなってしまったものは仕方がない。きくちゃんもきっと知れば同じ気持ちだろう。

(空き箱を仕舞っていても意味がないし、片付けなきゃ……そうだ)

 残った『りん子さん』と書かれた箱に、少し言葉を私なりに付け加えてみることにした。

(……これで誰も食べないわね。惣介さんが食べないのは分かるけど、俊介さんとか……裕介さんなら紙を外して食べるかもしれないもの)
「聞いたわよ~。あの馬鹿、あんた達のシユウクリームに手を付けたそうね?」
「ええ……りん子さんの分はちゃんとありますよ」
「当たり前じゃない。ふふん、残念ね~。言っておくけどあんたになんか分けてあげないわよ?」
「期待していませんよ……」
「何よ、つまんない子ねぇ、いつもなら反抗するくせに」
「そうでしたっけ……あの券は早起きしてりん子さんが貰ってきたものです。文句が言える立場じゃありませんし……」
「そりゃまぁ、そうだけど」
「じゃ、そろそろ店に行きますね」

 腑に落ちない、納得出来ないような表情をするりん子さんの横を通り過ぎ、私は足早に店に向かった。

「いらっしゃいませ、『弥島』にようこそ。お待ちしておりました」

 今夜最初の予約客を向かえる。幸介さんの姿はないので、恐らく途中から店に顔を出すか、別の用があるのだろう。女将さんもいない為不安ではあるが……

(でもこういう時に限って問題が発生するのよね……)
「姉様っ! そんなことしたらだめだって!」
「止めないでちょうだい! あの子には一度分からせた方がいいのよ!」
「食べ物を粗末にしたらだめ!」

 振り向くと私の背後でりん子さんときくちゃんが言い争っていた。一体どうしたのかと訊ねると、どうやらりん子さんが、私の“追記”を見て怒っているらしい。

「『りん子さん専用毒入り』なんて、よくも書けたわねぇ!?」
「だ、だってそう書いておけば、誰も食べないと思って……!」
「あたしだって食べたくないわよ!?」
「姉様! お店の前だから……!」
「ま、まさかそれを投げつけようとしているんですか? だめですよ!」
「身体で分からせてあげるわ!」

 その後何とかりん子さんをなだめ、そうして長い一日がやっと終わった。

「はぁ……疲れた」

 閉店し、いつもの様に庭先に腰を下ろす。

「……悪魔と揉めたそうだな?」
「ええ、お陰様で」
「夜食は?」
「ここにありますよ。……はいどうぞ。食べて下さいね」

 惣介さんの横にシユウクリームを二つ置いた。

「うっ、こ、これは……」
「おやすみなさい!」

 翌日惣介さんに聞いたところ、食べるまでに数時間かかったそうだ。