第五章 爽暁


ひやりとした冷気が瞼を撫ぜた。
ゆっくりと開眼すればあたりはもう暗闇ではなく薄靄の気配。
隣の存在をすぐさま思い出して、蘇芳は音を立てないようにそろりと起き上がった。

(……朝、か)

窓を見れば朝と呼ぶにはまだ早い、星が地平に落ちて空が白み始めた時刻。
冥界ではまず見られない美しい景色に、ふと口元を綻ばせる。
農紺と銀、そして茜が緩やかに混ざり合う暁。
夕暮れとはまた違うこの色合いが、蘇芳はとても好きだった。

地上に居た頃は朝が早かったのをよく覚えている。
有望株と言われていてもやはり一座の中では新人で、
同期の仲間と一緒に準備や掃除に奔走することから一日は始まっていた。

一日の始まりに、こんな爽暁をいつも目に映していた。

懐かしい思い出に耽ると同時、どこかこの景色を遠い世界のように感じた。
やはり自分にとっての故郷は既にここではないのだろう、と。

「……ん……」

小さな声が聞こえて視線を動かせば、隣の気配が睫毛を揺らしていた。
瞳が開かれないところを見るとまだ覚醒するには至っていないらしい。
その様子に微笑を浮かべて、蘇芳は指先でつと彼女の頬を撫でる。

起こしたくないけれど、触れたくなる。まだ寝顔を見つめていたいけれど、起きて欲しいとも思う。
この美しい景色をその瞳に映して欲しい。

「……ぅ、蘇芳……?」
「ごめん、起こした?」

ごめんと言いながらも彼女の瞳が見られたことが嬉しくて、
自分もたいがいひねくれているなと呆れた。

「いえ、少し寒くて……目が覚めてしまっただけです」
「そっか。まだ早いけど……ちょっと起きられる?」
「はい。……どうかしましたか?」
「や、朝焼けが綺麗だったからさ。玄奘にも見て欲しいなって」

朝特有の静けさに合わせて、声を潜める。
蘇芳の穏やかな声色に、玄奘はわずかに息をのんだ。
朝日は既に山際から顔を覗かせ、この宿屋の室内にも光を運び始めている。
朝焼けの空を見ずとも、その光に照らされる翠の瞳がいかに美しいかを。

――誤魔化すように目を伏せて頷くと、蘇芳にあわせて玄奘も窓際に寄った。

「……綺麗ですね」
「だろ? オレも久しぶりに見たけど、やっぱ好きだな」
「あ……そうですよね。冥界には朝が来ませんから」
「うん。滅多に見られないから、良く見えるのかもしれないけどね」

そう言っていたずらっぽく笑う彼に、玄奘も苦笑いを返す。
――一度は互いの手を離した二人が再会を果たしたのはつい昨日のこと。
離れていた間のことや今後のこと、色々な話をしては互いに変わらぬ想いを知った。

「……あ」

ふと、蘇芳が何かを思い出したようにちいさく声を上げる。

「どうしました?」
「寝ぼけてて大事なこと忘れてた」
「? なんでしょう」

ぱちり、と目を瞬いてこちらを見る玄奘は、起き抜けだからかまだ瞼が重そうだ。
髪もわずかに乱れ、気だるげなその様子は蘇芳の心を浮き立たせるには充分だった。
すっと彼女の頬を指先で撫でて、ゆっくりと引き寄せる。

「…………っ」

驚きながらも重心を傾けた身体を受け止めると、その目元に口づけを落とした。
柔らかく蘇芳の唇が触れた部分から、すぐに熱が宿る。

「おはよ、玄奘」

目を見開いて僅かに頬を染める彼女は、やっぱり綺麗だ。
ずっと見つめていたいとも思うし、もっと驚かせて慌てさせたいとも思う。

「あ、朝の挨拶なら普通にしてください……!」
「え。普通にしたつもりだけど」
「なにか余計なモノが混じっています、確実に」
「余計じゃないって。朝からあんたが可愛いかったからさ、仕方ないだろ?」
「…………」

何が仕方ないのかと言いたげな目で睨まれて、跳ね返すように蘇芳はにこりと笑んだ。

「オレはもう少ししたら出なきゃいけないんだ。会合の準備があるから」
「あ、そうなのですね……。では私も一緒に出ます。見送りたいですし」
「ありがと。じゃあ、出る準備しようか。たぶんもうそろそろ金と銀も迎えに――――」

と、蘇芳の言葉が中途半端に止まった。
玄奘が首を傾げれば、彼はやけに真剣な顔つきで人差し指を唇に立てる。
『静かに』といった合図だと知り、わけもわからず玄奘は言葉を呑んだ。

「……なんか、声しない?」
「……声? ですか?」

ひそひそと小声で言葉を交わすと、確かに静けさを湛えるこの場に、
二人以外の声が聞こえる。――発信源は、どうやら扉の外だ。
さらにはその発信源も声をひそめてはいるが――。

「壁と同化するのです! さすれば中の声が拾えますわ!」
「ね、姉さま、声は抑えてくださいよ〜……!」
「おさえておりますわ! わたくし、生まれてこのかたこんなに声をおさえたことなどありませんのよ!?」
「それ、威張って言うことじゃないですって……」
「とにかくお二人はまだ寝ていらっしゃると思いますの。ですから、起きぬけ部分を狙うのですわ!」
「? 寝起きドッキリ☆みたいのですか〜?」
「違いますわ! 朝特有の、恋人同士の会話を堪能するに決まっているじゃありませんの!」
「ああ! 朝から君は可愛いねとかそういうことですか〜」
「ええ、そうですわ!」

――声を潜めるどころか、徐々に素の声より音量が上がっていることなど
彼らには気づく由もないらしい。おそらく他の部屋の客にも迷惑なことさえも。

「…………」
「…………」

どちらからともなく、蘇芳と玄奘は互いを見合わせた。
一方は苦笑い、一方は盛大に顔を顰めて呆れ果てた表情だったけれど。

「……なんかごめん」
「ふふ、相変わらずですね」
「あいつらが変わることは多分ないと思う……」

しかも彼らの会話の内容を、わずかながらも自分がしていたという事実に蘇芳は頭を抱えている。
彼にとっては本能のままの行動なのだが、やはりいたたまれないのだろう。
とはいえ、心底くたびれた顔をしながらも慈愛に満ちる蘇芳の表情は、
玄奘の知るものから寸分も変わらなかった。

「待たせても可哀想ですし、準備して行きましょうか」
「うん。……あ、玄奘」
「はい?」
「ゆっくり話せなくなりそうだから、先に言っとく」

ゆるりと玄奘に向き合い、蘇芳は穏やかな声色で続けた。

「またしばらく会えなくなっちゃうから、さ」
「……はい」
「昨日も言ったけど、会いに来るから」

彼女の手を取り、優しく握りしめる。
今日から、明日から、また彼女に背負わせてしまう哀しみをわずかでも和らげるように。

「……ちゃんと、会いに来るから」
「はい。待っています」

そして彼女は、涼やかな声色ではっきりと答えを返してくれる。
自分のずるさにわずか自嘲しながらも、蘇芳は微笑んだ。

窓から差し込む光は、既に金色へと。
二人の未来を覆うような暗がりを、そこに見出すことは出来なかった。