第四章 あかねいろのねこ


夕闇の色が空を覆い尽くし、地平に星が瞬き始めた時刻。
世界を鮮やかに染め上げる色彩を映し、彼は村のはずれに座り込んでいた。

不純物の浮かばぬ、宝石の如く瞳に映るは茜色。
その姿をふと目に留めた玉龍は、彼のすぐ傍に膝をつく。そしておもむろに会話を始めた。

「……おまえ、ひとりなの?」
「ニャー」
「そう。母親が、いるんだね」
「ニャー?」
「……おなか、すいたの?」
「ニャ」

彼の身体は幼く、手のひらに収まるほどの弱々しさだった。
玉龍はその命の小ささを無意識に心配したが、瞳に映る意思の強さにほっと息を吐く。
もし母を失い生きる力を失った彼に懐かれてしまったら、捨て置けなかっただろう。
そうしたら、今度は自分の大切なひとにどう言い訳をすれば良いか困ってしまう。

――今までにも何度かついて来られてしまって、引き取り手を捜すはめになったことがあるから。

孤独な動物にとって、時として差し伸べる手が残酷なものに変わることがある。
曖昧で中途半端な情ならば、初めからなければ良いと思う者もいるだろう。
彼らには独りで生き抜く意思と環境が必要なのだ。助けを望まぬ心が、生きる確率を必然的に上げている。

(……それでも)

以前は玉龍も似たようなことを思っていた。けれど今は違う。
――無条件に差し伸べられた手の優しさを、悪と罵ることはできない。

(ひとりは、寂しい)

そして自分がそうしてもらったように、今は自分の意思で想う。
命令ではなく、義務ではなく、ただ優しくありたいと。

「……美味しい?」
「ニャー」
「おまえ、今日は運が良かったね。早く自分で餌、取れるようにならないと」
「ニャ」

動物は素直だ。仔細な言葉が分かるわけではないけれど、その心は伝わる。
彼がこちらの言葉に賢明に頷いていることが分かると、玉龍はふわりと笑んだ。
小さな頭を指先で撫でれば柔らかな毛並みがすり寄ってくる。すこしくすぐったかった。

「玉龍? こんなところに居たのですね」

――と、涼やかな声色が耳を打った。

「お師匠様」
「あ……子猫ですか?」
「うん。……あ、黙って拾ったりしないから」
「ふふ……分かっていますよ」

宥めるような笑みを見せてから、玄奘も玉龍の傍らに座り込む。
しゃらりと、彼女の持つ錫杖が心地の良い音を立てた。

「この子は、元気そうですね」
「うん。母親とか、兄弟とかと、幸せに暮らしてるみたい」
「そうですか。……良かった」

そう言って穏やかに微笑む横顔を見て、玉龍の胸はちいさく締めつけられた。
猫と同じくあかねいろに染まる瞳は、わずかな切なさと安堵を見せる。

すべてに手を差し伸べられるわけではない。
けれど自身の眼で見える範囲は、手が届き知り得た範囲は、できる限りのことを。
常にそう思っているであろう彼女の信念を、玉龍は誰よりも理解していた。
そして彼女に倣うのではなく、玉龍も確かに自分の意思で感じていた。

――誰かに手を差し伸べるのは、きっと自分に手を差し伸べることと、同じ。

「お師匠様」

つと、玉龍が玄奘の手を取った。
ひんやりと冷たい玉龍の温度を手に感じ、彼女はちいさく首を傾げる。

「玉龍?」

玉龍はゆるやかに空を仰いでいた。静かな翡翠の瞳に朱が映りこみ、美しい色合いを紡ぎだす。

胸を締めつけるようなこの想いをなんと表せば良いのかわからない。
ただ大切な人の手をきゅっと握ることで、怖いような切なさを隠せるような気がしていた。

「……あなたがいてくれて、よかった」
「え……」
「あなたがいるだけで、僕は幸せ、なんだ」
「玉龍……」

そう、この想いは単純で明快だ。
どうして苦しくなるのかは、今の自分には分からなかったけれど。
どうして嬉しくなるのかは、分かりきっている。

「あなたが僕に、手を差し伸べてくれたから……」
「違いますよ、玉龍」
「え?」
「あなたが、私を救ってくれたのです。
 私はあなたに手を差し伸べたのではなく、あなたの手に縋ったのですよ」
「……そうなの? それって、僕がお師匠様の助けになったって、こと?」
「はい。当たり前ではありませんか」

何度言葉にしても、自分がいかに必要とされているかを玉龍はなかなか自覚しない。
その事実に苦笑いを零しながらも、確かな愛しさと共に、玄奘は彼の手をきゅっと握り返した。

「……苦しい」
「え? 玉龍、苦しいのですか?」
「うん。……でも、嬉しいから。大丈夫」
「??? 体調が悪いなら、無理はしないでくださいね。
 あなたは人間になったのですから――」
「平気だよ。これはきっと、嬉しいことだから」

幸せそうに微笑んで、玉龍がそっと玄奘の肩に頭を寄せる。
そのちいさな動きに心が逸るのを感じながら、彼女もそっと目を伏せた。


あかねいろの空の下。
まだこの感情の名が分からなくて怖い気持ちも、あるけれど。
もっともっと、知りたいと願う気持ちは、嘘じゃない。

「玉龍、そろそろ行きましょうか」
「うん」

苦しくて、嬉しくて、泣きそうになるこの気持ち。
【幸せ】とは少しだけ違う、いつかその名前が分かる日が来ると、いい。

「ニャー?」
「……またね」


そしてどこか、確信もしている。
新たに知ったその名をあなたに伝えられる日は、きっともうすぐ。