「おはようございます、時貞様。早くから精が出ますね」
「おはよう、竹駒。僕など遅いくらいだよ」

僕が暮らす【緑】の朝は早い。染料になる花の棘は朝露で少し柔らかくなるから、陽が昇りきる前に摘み始めるのだ。清々しい光の中での作業は楽しくて、この島の暮らしにもすっかり馴染んだと実感する。

「そういえば昨日、久し振りにオランピア様とお話しいたしました。お元気そうで何よりです。離れ島での仕事は嫌いではありませんが、手紙の配達がないことだけ少し寂しいですわ」
「そうだね、笹良には竹駒がいないと伝えてはあったけど、返事が遅くなるしね」
「いいえ! うちの馬鹿娘のことは別にいいんです。オランピア様とお喋り出来ないのが残念で」

娘の笹良は、夫となる者を拒んだ罪で黄泉送りとなった。手紙の配達が縁で親子と親しく話すようになり──

「ところで時貞様、婚儀のお話は……?」

竹駒に限ったことではない。これは最早【緑】の挨拶のようなもので、その度に僕は笑顔で、同じ台詞を返すことにしている。

「有難う、みんなを待たせて申し訳ないね。慎重に検討しているところなんだ。決まったらすぐに報告するから」
「やはり【白】の娘の婚儀ともなると色々とあるのでしょうね。何せ、この島始まって以来のことですもの」

僕は穏やかに笑み、花びらをそっと摘む。嘘は何一つついていない、ただ心の中の全て明かすことは出来ないのだ、竹駒だけではなく、愛する女性にも。

「ああ、でも本当に楽しみですわ! 時貞様もすっかり大人になられて、新しいそのお召し物もよくお似合いですもの。見る度に染めた私も誇らしくて」
「流石の見立てだよ。何から何まで有難う」

そろそろ着物の丈が足りないのでは、と【緑】の女性達が提案してきた時には驚いた。マレビトの僕が成長するのかは誰にも言えない不安の一つであり、測ってもらうと確かに伸びていた、背丈も、肩幅も、腕の長さも。

『まぁ……時貞! 新しい着物も素敵よ、格好いい、よく似合ってる!』

彼女はとてもはしゃいで、僕を抱きしめて、そして口付けてくれた。大切で愛しい、僕の半身。

「次はいよいよ……いよいよ、いよいよ! お二人の婚儀の衣装ですわ。オランピア様の花嫁姿……もう想像するだけでうっとりします」

僕だって美しく着飾った彼女を見たい、今すぐにでも夫婦になりたい。でもそれはまだ叶わない。何故なら僕はまだ──何も為し得ていないから。



「柑南の話を聞いたか」

コトワリに向かって歩いていた僕の背後から、声をかけてきたのは薙草だった。

「どういったことだろう」

なるべく穏やかに、僕はそう返した。彼との関係は、良くも悪くもなっていない──少なくともこちらはそう受け止めていた。あの頃の僕は子供で、柑南と薙草の甘言に抗えず、大きな罪を犯しかけた。

「【橙】の公家が直訴したらしい、我等の長を早く連れ戻して下さい、とな」
『時貞、僕は善良な君が道摩殿を殺せるとは思っていなかった。だからきっと捕らえられて処刑されると思っていたんだが……存外、道摩殿はお優しいようだ。常穂殿のことも、本当に僕は運が悪かった。あそこにあの医者が……いなければ』

常穂殿や実の兄である刈稲の命を蔑ろにし、僕にも手にかけようとした彼は流刑となり、遠い島に送られた。エビス楼は閉ざされ、時折【橙】の者が掃除をしているだけだ。

「薙草、僕は叶うなら今度こそ柑南と向き合い、言葉を交わしたいと考えている。【橙】は代わりの長が見つからず公家達が暫定的に取りまとめている状態だから、一日でも早く柑南に戻ってきて欲しいと願い出た話は耳に入っている。でも……そんな簡単に刑期の短縮が叶うものなの?」
「それがあいつのおかしなところだ。どうやら、顔に入れ墨をすることを承諾したらしい」
「えっ!」

咄嗟に叫んでしまったくらい、それは意外に思えた。つまり、刈稲と似た姿になるということだろうか。

「あいつなら金で幾らでも解決出来るだろうに、自分からわざわざ醜い姿になるなど」

金銭のやり取りに賛同は出来かねるものの、だからと言って柑南がそんな方法を選んだことはどうにも腑に落ちない。

「本当に……──入れ墨を?」
「この目で見たわけではないがな」

ならばやはり、人伝で話が広がる中で何か誤解が生じたのかも知れない。あの計算高い彼が、誇り高い彼が、罪の印を頬に刻むなど有り得ない。

「入れ墨の長など、前代未聞だ。もし本当にそんな姿になったら一緒に歩けない」

薙草は顔をしかめてみせるも、その声音には案じる気配がある。これが彼等を憎みきれない理由の一つだった。朱砂と璃空、玄葉と縁もそうだけれど、幼馴染みのような友は正直、羨ましい。

「ところで時貞、オランピアを娶らないのなら私に譲れ」

唐突に矛先が向いて、僕は言葉を失う。

「【白】の子を残すために夫となる者を選んだというのに、婚儀の話が聞こえてこない。最初の噂通り、朱砂になるのかと思っていたが、彼はもう卑流呼様に楯突いた叛逆者だからな」
「朱砂はそんなふうに考えてないよ」

その『卑流呼様』が一体誰か知ったら、薙草はどんな顔をするだろうか、もちろんそれは秘密だけれど。

「柑南も入れ墨姿となればオランピアの相手は難しいだろう。ということはもう、相応しい男は私しかいない」
「彼女の許婚は僕だ。そして朱砂は叛逆者なんかじゃない」

薙草が大袈裟に眉を顰めてみせた。薙草や柑南と知り合ったばかりの僕は、とてもこんなふうに言い返せなかった。でも、今は言える。何も為し得ていなくても、彼女の側を離れない、絶対に。

「時貞、いい機会だから例の黄泉染めとやらに関して、私の意見も伝えておく。あんな馬鹿げた真似を強いられた【緑】の民が憐れでならない。お前は死菫城の主と親しくしているようだが、あいつも悪評ばかりではないか。丸め込まれたのか」
「縁も、僕の信頼出来る友人だよ」

『黄泉染め』──その名の通り、黄泉の彼岸花を用いて染めるそれは、僕が提案して始めたことだった。地上と黄泉を、どうにか繋ぎたくて。

「今まで黙っていたのは、賛成していたからではない。【緑】の民の心がお前から離れれば、自ずと常穂殿が再び長に戻るだろうと考えてのこと」

以前の薙草は、僕に対してここまで敵意を剥き出しにすることはなかった。もっとも、あの頃はあの頃で僕を傀儡にしようとしていたから、正直になった今の方がある意味では清々しい。

「もし、常穂殿の健康に不安があるのであれば、私が【緑】を引き継いでもいい。そろそろ父上から【黄緑】の長を譲っていただけそうだからな」

彼の態度が少し変わったのは『長』の問題もあるのかも知れない。【赤】と【青】で次の長が立つのではないか──慈眼殿と珠藍殿が退けば、島の全てに関わってくる。薙草も意識してはいるのだろう。

「心配してくれて有難う、薙草。でも常穂殿はすっかりお加減も良くなった。それに僕は長を自ら辞すことはしないよ」


「今日もよく実ってるなぁ」
「改めて考えると、ここに種を埋めて正解だったと思うわ」
「人目につくところだったら大騒ぎだよね。2年半でここまで育つなんて」

二人で埋めた桃の種は、生き水のお陰であっという間にここまで育った。ここは風通しも陽当たりも良くて、最高の場所だろう。豊かに緑の葉と瑞々しい果実を繁らせる木を仰ぎ見ているといっそ桃の木が羨ましいほどだった。

『私は柿が大好きなのだが、桃も捨て難い。育てて交換しようではないか』

あの日の、彼等の温情によって僕は彼女の側で生きることを許された。彼女の父に刃を向けるような未熟者だったというのに。

「しかも一年を通してずっと花が咲いたり、実をつけたり……流石は生き水」
「私もまさかここまで育つとは思ってなかった。天女島から水を汲んできた甲斐があったわ」
「……天女島か」

僕はまだ、渡ったことがない。渡ってみたいと思うのに、言い出せない。桃はこんなにも実ったのに、僕は為し得ていないから。まだ──何一つも。

【end】