「しかし、朱砂様にも困ったものだなぁ」
「慈眼様や【赤】の者達はどうするつもりなのだろうなぁ」
昼飯時の日時計広場は大賑わいだ。屋台で買ったばかりのおにぎりを囓っていると、後ろから困惑する声が聞こえてきた。
「ご立派な方だとは思うが、まさかハズシの処刑に反対するなどとは」
「コトワリというのは確かに中立の立場ではある。だがそんなものは表向きでいいのだ、下層の者達や黄泉のことなど放っておけばいい」
「全くだ。しかも朱砂様は次の長となるのだろう?」
「それなんだが、俺の知人が軍にいるだろ? どうも【青】の璃空様まで処刑に反対しているらしい」
「璃空様まで!? しかしその璃空様だってそろそろ……」
「ああ、長となるはずだが……一向に正式なお披露目の話が聞こえてこない」
今日のおにぎりは焼き鮭と肉巻きと昆布にして、卵焼きと竜田揚げもつけた。この広場はどんな【色】でも入れることになっていて、特にこの時間は屋台が並ぶから一日で最も人の出入りが多い。そんな中でも──こんなふうに誰かが誰かを蔑む。悪意なく、それが当然の正しさのような顔で。
「朱砂様と璃空様がそんなことでは、とても長の交代など無理だな」
「【黄】の者達は、いっそこのまま道摩様、慈眼様、珠藍様のままでもいいと思ってるくらいだろうな。あそこは長となる若い男がいないから、新しい長は立たない」
「確か、継ぐはずだった公家の息子が死んだんだっけ」
「ハズシでな」
その男は黄泉で元気に暮らしている、と言ってやりたかったがひとまず呑み込んだ。刈稲も、地上に戻る気はないだろうから。
『それでは死菫城の皆様、改めまして刈稲です。本日より住み込みで死菫城で働くことになりました。何でもやりますんで、どんな雑用でもお気軽に! よろしくお願いします!』
少し前に、虹の雨が降った。俺は神様とやらの祝福がどうとか興味はないが、そのお陰で黄泉の罪人の一部は恩赦として宿舎の外へ出ることが許された。その中にいた刈稲は真面目さと人当たりの良さを買われ、目出度く住処と仕事の両方を得たのだった。
「確かに……このままの方が島のためにはいいのかも知れないな。そもそも、慈眼様と道摩様はマレビト、寿命なども違うだろうし、珠藍様もまだまだお若いし」
「お若いと言えば……オランピア様の花婿は、結局あの玄葉先生で決まったのか?」
「……っ」
まさかここで自分の名が出るとは思わず、咄嗟におにぎりの包みをまとめる。
「最初は、朱砂様だと言われていたろ? だが玄葉先生があの【白妙】を作って下さって……道摩様はその褒美としてオランピア様の夫となることを許したそうだ」
順番が違う──しかし、訂正すると道摩殿の非になってしまう。全く、どうして人間とはこう噂が好きなのだろう。せめて真実を広めてくれと思うが、最初は真実であっても人の口から人の口へ伝わる最中に変質するのもよくあることだ。
「先生が【黒】などでなければ、【黄】を継ぐことも出来たろうにな」
俺は包みを白衣のポケットに突っ込み、ベンチから立ち上がった。
「玄葉、お昼?」
広場の入り口で声をかけてきたのは明日羽だった。
「【緑】からの帰りか」
「うん、そう」
「昼飯を買ったんだが、ベンチに空きがなくてな。港で一緒に食べるのはどうだ」
「そうだね、じゃあ俺も何か買ってくる。先に行ってて」
虹の雨が降ってから──いや、そもそもこの島の変化は『彼女』の功績が大きいだろう。黄泉へ下りた彼女は明日羽とも友達になり、結果として俺の一番年下の友人は大きな夢を抱くようになった。
「お待たせ、玄葉」
港で海鳥を眺めていると、紙包みを携えて走ってくる姿が見えた。
「好きなおにぎり屋さんが出てた! 海浬に教えてもらったんだ、好きな具を選んで握ってくれるんだよ」
「はは、あそこか、実は俺もだ」
包みを取り出し、膝の上に広げる。今度は楽しく食べられそうだ。
「あっ、卵焼き美味しそうだね」
「食えよ、竜田揚げもな」
「へへ、ならご馳走になります」
「勉強の調子はどうだ。分からないことがあったらすぐに聞きに来いよ」
「ありがと。でも借りた本すごく読みやすいから大丈夫だよ。俺、絶対に書院の試験に合格するからね」
明日羽の夢──それは、医師になること。彼の口からそれを聞いた時には驚いた。黄泉で産まれ育った【無色】の少年にとってそれがどんな困難を意味するか、この俺がよく理解っている。
「俺も彼女も、縁も朱砂も、みんなで応援してるからな。だが、試験に油断は禁物だぞ。正解を書いたつもりで間違ってる、なんてこともあるし。とにかく今は一冊でも多く勉強することだ」
本音を言えば、明日羽が書院を目指すことに不安はあった。基本的にあそこは【原色】と【独色】の坊ちゃんばかりで、俺もつまらない差別を受けた。だが、不安よりも希望の方が大きかったのだ。明日羽が未来を描くのなら、それを応援してやりたかった。
「黄泉で暮らしてる人間が試験を受けられるだけでもありがたいことだよね。掛け合ってくれた玄葉と朱砂には色々と迷惑かけたと思うけど……だからこそ、頑張る」
「迷惑なんて考えるな」
俺は明日羽の背中を力強く叩いた。
「あ、玄葉先生! 先日はうちの子どもを診て下さって有難うございました」
彼女と二人で港を歩いていると、走り寄ってくる姿があった。
「もう熱は下がったか」
「はい、あの診療所……本当に助かってます。まさか黄泉にあんなものが建つなんて」
「だがそれも元はと言えば彼女のお陰なんだ。道標となるものを俺に与えてくれた」
「そんなことないでしょう、見出したのは貴方だもの」
「はは、お似合いですね。みんなお二人の婚儀を今か今かと待ってますよ」
「その時は盛大に祝ってくれ」
「もちろんです! では仕事がありますんで」
笑顔で走り去る男の背中を眺めながら、考えずにはいられない。『婚儀』──果たして、そんな日が本当に訪れるのだろうか。俺達がどれだけ愛というものを信じたところで、俺の中に流れる【黄】の血が『愛』を嘲笑する。
「玄葉先生は何処でも大人気ね」
「診療所はいつか絶対に叶えたかった。こんなに早く建てられるとはな」
【白妙】の報奨金で、黄泉に小さな診療所を建てた。明日羽は、そこの医者を目指すという。
「さっきの奴は黄泉生まれの黄泉育ちなんだが、地上に出て仕事したいと手形を取って荷担ぎに。朱砂が手形の条件を見直した効果が出てる」
「地上に出る者が増えるのはいいことよ」
「いいこと、ではありませんよ」
背後から近付いてきたのは薙草だった。苛立ちと、俺への侮蔑を隠そうともせずに。
「オランピア、貴女の優しさは美徳ですが醜いものを無理に愛さずとも良いのですよ」
「急いでるんだ、またな」
「玄葉、私は貴様に感謝などしないぞ」
「薙草!」
掴みかかりそうな彼女を、やんわりと制する。この喧嘩っ早さも愛しているが、薙草のような男をたしなめたところで誠意は通じないだろう。
「あんな薬など、偶然の産物だ」
蔑まれることには慣れている。だが今は俺も苛立ちを隠すので精一杯なのだ、最悪な実の父親のお陰で。
『【黒】の玄葉よ。前【黄】の長である男が剥により子を喪ったことは知っての通りだ。正確には、運のいい末の子が生き永らえた。その身を黒く変えて』
彼女の父は【黄】の長──いつか、こんな日が来るのではと思っていた。だが知るか、そんなもの。俺を棄てた奴が何をしようと、俺は俺でしかない。俺は【黒】の玄葉だ、それを矜持に今日まで生きてきたのだ。
『娘よ、この男はお前の母を殺した男の血を引いている。それを知っても尚、今までのように愛せるか?』
愛してくれ、どうか。だが今の俺にそれを口にする権利は──ない。