「草食系」【弥太郎】
シナリオ:高瀬美恵
「お帰りなさい、弥太郎さん!」
所用から戻った弥太郎を、真奈が玄関先まで走り出て迎えた。
「ああ、ただいま」
いつものように答えて奥へ上がろうとする弥太郎を、真奈はそわそわした様子で引き留める。
「ねえ弥太郎さん。何か気づきませんか?」
「ん?」
「朝、弥太郎さんが出かけて行ったときと、何かがちょっと変わってるでしょ?」
弥太郎は足を止めた。まじまじと妻の顔を見つめ直してみる。
「あー……髪、切ったか?」
「切ってませんよ」
「じゃあ紅だな、口紅。うん、よく似合ってるぞ」
「つけてませんよ」
「……あ、着物だな? そうだそうだ、新しい着物……」
「じゃありません。朝もこれを着てました」
「……そうだったか……」
真奈の口がだんだん「へ」の字になってゆくのを見て、弥太郎はまごついてしまった。
「私じゃなくて、まわりを見てください」
「まわり?」
きょろきょろ見回してみたが、とりたてて変わったところはない。いつもの我が家である。
「何かあったのか? 雨漏りでもしたか?」
「……もう、いいです」
真奈は機嫌を損ねた様子で、くるりと背を向けてしまった。妻のこの「くるり」が、弥太郎には何よりも痛手である。
「おっ、ちょ、ちょっと待て! いま考えるから! 床……は、いつも通りだよなあ……天井? 壁か?」
真奈は振り返ると、首をひねっている夫を見上げてため息をついた。
「……これです」
「ん?」
「お花を飾ったんです」
真奈の指さす先を見れば、なるほど、玄関先に置かれた水盤にこぼれるように花が生けられている。
弥太郎は、いささかわざとらしく声を張り上げた。
「おおーっ、こいつぁきれいだな! 真奈が生けたのかい」
「自己流ですけど。秋夜が花を摘んできてくれたので、飾ってみたんです」
「秋夜が?」
「薬草を摘みにいったついでに、こんな可愛い花を見つけたんですって。それで、わざわざ届けてくれて」
真奈は、さっきまでの不機嫌が嘘のように笑みこぼれた。
妻の笑顔は、弥太郎にとって何より大事な宝である。しかし、今日は少々複雑な気分だった。笑顔の理由が自分ではなくて、他の男だ……なんて。
「秋夜のやつ、女々しいまねをしやがる」
つい、憎まれ口を叩いてしまった。真奈はムッとした顔で弥太郎をにらんだ。
「なんですか、女々しいって」
「花など摘むのは女子供のすることだ。あいつには、軒猿の自覚が足りんな」
「ひどい! 秋夜は心が優しいだけです。それに薬師だから、草花のことをよく知ってるんですよ」
真奈が秋夜を庇おうとするのが、ますます気に食わない。
「男子たるもの、花なんぞにうつつを抜かすのは感心せん」
弥太郎は懐手をして、ふんぞり返った。真奈は頬をふくらませて言い返した。
「わー、やだやだ。弥太郎さんみたいな男の人って、女の子に一番嫌われるタイプ!」
「……何だと?」
「先の世では、秋夜みたいな優しい人がモテるんです。草食系男子ってやつです」
「そ……そー……しょく……?」
「ウサギとか鹿みたいに、ほんわかと草を食べる動物のような男の子が人気なんです」
「なにー!? 先の世の男は草を食うのか!?」
「たとえですってば。先の世では、弥太郎さんより秋夜のほうが絶対モテモテですから」
「ば……バカな……」
秋夜の優しい気性は、弥太郎も決して嫌いではない。さっきは妬きもちを焼いて、つい悪し様に言ってしまったが、秋夜の繊細さは薬師として大事な資質であることもよくわかっている。
だが、それはあくまでも薬師としての評価だ。自分よりも秋夜のほうがモテるだなんて、弥太郎には断じて納得できない。
「あーあ。弥太郎さんが草食系だったら良かったのになー」
真奈は、横目でちらちらと弥太郎の表情をうかがいながら言った。
「そうしたら私、もっと幸せだったなー」
「な……何を……バカな。草なんぞ食って、戦ができるか!」
「草は、たとえですってば。私、好きだな、草食系。草食系の男の人と結婚したかったなー」
これが妻の手だということくらい、もちろんわかっている。無理難題で夫を困らせようなど、おまえには百年早いと言ってやりたいところだ。
が……それが言えれば、苦労はないわけで。
「……どうすればいいんだ、草食系ってのは」
鬼小島は肩を落として尋ねた。妻は目を輝かせて答えた。
「そうですね、まず、お酒をやめましょう」
「えっ」
「草食系男子は、お酒よりスイーツですよ。二人で一緒にお菓子を作って、一緒に食べて『おいしいね』って言い合うんです。そして手をつないでお花畑でデート、かなあ」
「すいーつ……でーと……?」
「はい! 早速始めましょう。二人で一緒にクッキーを焼きましょう」
「ちょっと待て。俺も手伝うのか?」
「そうですよ。草食系男子は、お菓子ぐらい作れなくちゃ」
「男が菓子作りなど、みっともない……」
「そういう考えが古くさいんです!」
そりゃ、おまえに比べれば四百年以上古いんだ……と喉まで出かかったが、これもまた言える弥太郎ではない。
小島弥太郎は、自分よりはるかに小柄な妻に逆らえず、ずるずると厨房に引きずり込まれた。
夕暮れの風が吹く花畑で、二人は仲良く並んで腰を下ろしていた。
「おいしいですね、クッキー。弥太郎さんが焼いてくれたから」
「あ、ああ。焦がしちまって悪かった」
「初めてにしては上出来ですよ。次はもっと上手に焼けますよ」
……次もあるのか、と内心でげっそりしながら、弥太郎は横を向いた。その袖を、真奈がくいくい引っ張る。
「可愛い蝶々が2匹飛んできましたよ。仲良さそう。夫婦かな?」
「……知らん」
「そこは『うん、僕たちみたいだね』って言わなくちゃ」
「……」
「楽しいですね、草食系デート」
「……ああ」
実のところ、弥太郎には何が楽しいんだかさっぱりわからない。
先の世というところはまったく不可解だ。そっとため息をついたとき、真奈が言った。
「帰りましょうか?」
「ああ」
「帰ったら、晩酌してあげますね」
「ああ……え?」
確か、草食系男子とやらは酒を飲まないはずではなかったか。
驚いた弥太郎の顔を、真奈は笑顔でのぞきこんだ。
「ごめんなさい。草食系が好きだなんて、嘘です」
「……何?」
「弥太郎さんが草食系になったら面白いだろうなあって思いついただけです」
「……おまえなあっ」
どっと力がぬけた。笑って逃げようとする真奈を、弥太郎は一瞬早くつかまえた。
弥太郎の両腕の中で、まだ真奈は笑っている。弥太郎は、言葉だけは厳しく言った。
「からかったのか。悪趣味だぞ」
「弥太郎さんが頑固なこと言うからですよー。ちょっと意地悪したくなっただけです」
「俺は……つまり、元通りでいいんだな?」
「はい。いつもの弥太郎さんが一番好きですよ」
真奈は弥太郎の首に腕を回すと、頬に優しく唇を押し当てた。
たったそれだけで、弥太郎の気はすっかり晴れた。
単純なことなのだ。結局、真奈に振り回されるのが楽しくて仕方がない。
「……帰るぞ。今日は、飲むからな」
「いつも飲んでるじゃありませんか」
「今日は特に飲みたい気分だ」
「飲み過ぎたらだめですよー」
歩き出した弥太郎に、真奈がぴったり寄り添う。
たまには「草食系でーと」も楽しいかもしれん……という思いがちらっと頭をかすめたが、それは言わないことにしておく。
春日山の小道に、二人の影が長く伸びた。