―『金烏玉兎典』より

???(玉彗)「……人、か……。
このような場に流れ着くとは珍しい」
ナーヤ「う……」
???(玉彗)「まだ、息があるか」
ぐん、と身体を引き上げられる。
あたたかな手の感触に虚ろだった意識が、鮮明になった。
ナーヤ(……生きて、る……?)
冷え切った身体は重たく、感覚も曖昧だ。
けれど私を抱えてくれる“誰か”の体温は鮮明で、自分の息があると気づく。

生きている。

ほっとした途端、身体の感覚が舞い戻ってきた。
身体が酷く痛み、寒さに震えが止まらなくなる。
ナーヤ「っ……」
???(玉彗)「……酷い怪我だな。
急ぎ醫院いいんに戻り火を熾す必要があるか。
生薑しょうきょうはまだあったと思うが……」
ナーヤ(この人は、誰……?)
朦朧としながら、顔を上げる。
その瞬間、彼が息を呑むのが分かった。
???(玉彗)「なっ―!?
貴嬢は……まさか―」
まさか、と言って彼が私を凝視する。

愕然と、何かを恐れるような
苦悶と悲痛さが顔によぎる。
その瞳に痛みを堪える色が浮かんだ。
???(玉彗)「……いや。今は……問いただすべきではない……」
ぐ、っと感情を堪えるように目を瞑り、彼が、私から目をそらす。
小さなため息をついて、彼は私を抱きかかえたまま歩いていった。

夜明けの日差しが、枝葉の隙間から零れ落ちている。

草を踏む優しい音が、静寂の中に響いていた。

―『金烏玉兎典』より

玉彗「やめなさい」
押し殺した声が、背後から聞こえた。
後ろから羽交い締めにされ、身動きが取れなくなる。
玉彗「所詮、過去の影だ。呼びかけても意味はない」
ただ黙って見ていろというのか。
われない罪を被せられ、苦しみうめく人の姿を。

意味がないと分かっていても、黙って冷静に見ていられる程、非情にはなれない。
だって苦しんでいるのは―玉彗さんだ。
ナーヤ「嫌、です!
……苦しむ玉彗さんを、黙って見ているなんて、出来ません……っ」
玉彗「っ……」
ナーヤ「意味がないとしても……黙って、見ているだなんて嫌なんです」
玉彗―それでも、諦めなさい」
声は、微かに震えていた。
玉彗さんが項垂うなだれ、私をぐっと後ろから抱きしめる。
動くな、耐えろというように。
玉彗「貴嬢が、どれだけ叫ぼうと……誰にも……声は届かない」
声をかけ、過去に干渉したいと願うのはきっと彼も同じだった。

でも出来ないから―無意味だからと彼は心の叫びを封じて私の動きを奪い去る。

何も出来ない事がもどかしくて、視界が滲んだ。
やめてと叫んだとしても、この声は誰にも届かない。

糾弾され苦しむ玉彗さんがいるのに、彼の心に寄り添う事さえ出来ないんだ。
仙虹時代の
玉彗
―私には、すべき事が、ある……。
誰、が……使ったのか、調べなければ、ならぬ……」
瞑芯山の
仙虹1
「何度言えば分かる。
お前以外の誰が使うと言うのだ。
責任逃れをしようとしても無駄だ」
瞑芯山の
仙虹2
「犯人は明白だ」
仙虹時代の
玉彗
「っ、ならばせめて、この瞑芯山が、元に戻るまでは―」
瞑芯山の
仙虹1
「誰がお前を信用出来る」
瞑芯山の
仙虹2
「お前は、凶事を引き起こした張本人だ。
―大人しく裁かれよ」

―『天命胤外伝』より

筆記用具と本を片付けて、朝餉を取るために広間へ向かおうとする。
その時、ひょこっと燕粋お兄ちゃんが覗き込んできた。
玖 燕粋「おお、ちょうど終わった所だったか。
ふむ感心感心」
フェイ「燕粋兄ちゃん!」
ナーヤ「お兄ちゃん!」
燕粋お兄ちゃんが迎えに来てくれたのが嬉しくてパタパタと走り寄ると、燕粋お兄ちゃんは、えへんと胸を張った。
玖 燕粋「おうおう、可愛い弟と妹よ。
この燕粋が迎えにきたぞ」
玖 燕粋「ふふん、どうだ。燕來。
私が、燕粋お兄ちゃんだぞ!」
私たちがくっつくと、燕粋お兄ちゃんはいつも、こうして得意げな顔をした。
代わりに燕來さんが、呆れた表情を浮かべる。
玖 燕來「……兄上。それの何が凄いんですか」
玖 燕粋「年長者は敬えと、教わらなかったか?」
玖 燕來「私も、敬えるような兄が欲しいと子どもの頃はよく思っていましたよ」
玖 燕粋「この子らは、私を敬ってくれるが?」
玖 燕來「この二人は聡く辛抱強い子ですからね。
兄上の突拍子もない発言が許せるほど、心が広いんでしょう」
玖 燕粋「燕來は心が狭いからなあ」
玖 燕來「兄上に、大切に残しておいた肉包ロウパオを食べられたり、勉強の邪魔ばかりされていたら心も狭くなります!!」
玖 燕粋「ははあ懐かしいな。
燕來が何もかも私よりも出来るもので、つい妬んでしまったのだ」
全く悪びれない様子の燕粋お兄ちゃんに、燕來さんが、がくりと項垂れる。
でもその様子は、以前よりも苛立っては見えない。

―こんな風に燕來さんと燕粋お兄ちゃんが言い合うようになったのも、ここ最近のことだ。
玖 燕來「……兄上ももっと、我が家の仕事をなさってくれれば良いのですが」
玖 燕粋「しているではないか。
妓楼通いも辞めたし、ほれ、この通り立派に子育てをしているぞ」
玖 燕來「子育てというのは甘やかし遊ぶという意味ではないのですが」
玖 燕粋「良いではないか。
燕來が厳しく教え導き、私が甘やかす。
それでちょうど釣り合いが取れるというものだ」
玖 燕來「それは、まあ……そういうものかも、しれませんが」
珍しく燕粋お兄ちゃんの言う事を認めた燕來さんに、私もフェイも燕粋お兄ちゃんもみんなで目を丸くする。

そして―燕粋お兄ちゃんは、本当に、本当に嬉しそうに笑った。
玖 燕粋「お前のことは信頼しているからな。
よくよく、この二人を導いてやれ。
二人も、燕來の言う事をよく聞くのだぞ」
フェイ
&ナーヤ
「はい! 燕粋お兄ちゃん!」
玖 燕來「…………」
玖 燕來「……私の事は」
フェイ「え?」
玖 燕來「…………私のことは、兄と、呼ばないのか」
ぽそっと呟かれた言葉に、私もフェイも、息を吸い込んだ。
フェイ「呼んでいいのか!?」
ナーヤ「呼んでいいんですか!?」
玖 燕來「お前たちは、玖家の養子となった。
兄上の事を兄と呼びながら、 私の事は他人行儀に名で呼ぶのはおかしいだろう」
玖 燕來「年長者への敬いさえ忘れなければ、敬語も不要。―兄と、呼んで良い」
フェイ「っ……!
ありがとう、燕來兄ちゃん!」
ナーヤ「ありがとうございます、燕來お兄ちゃん!」
玖 燕來「っ……で、では朝餉に向かうぞ!」
玖 燕粋「うむ、そうだな。食べるとしよう。
先ほど厨房に寄って、燕來の好きな杏仁羹キョウニンカンを作るよう言っておいた。楽しみにしておれ!」

―『三世因果典』より

フェイ「よっと」
寝床に入ると、フェイは私を抱きしめた。
急に抱きしめられて、私は驚いてしまう。
ナーヤ「わっ、フェイ……?」
フェイ「はー、あったかい。
今日はちょっと寒かっただろ?
だからこうしたくてさ。いいか?」
いいか、なんて言いながらもフェイの眼差しは、私を気遣うものだった。

私を安心させるように、フェイが抱きしめてくれている。
彼の優しさを感じて、胸がいっぱいになった。
ナーヤ「うん。……あったかいね」
フェイ「うん。……あったかいな」
ぎゅうっとくっついて、私たちは見つめ合う。
毎夜、私たちはこうして触れ合って眠りを待っていた。

夜は、暗闇に落ちてしまうから。
不吉な記憶に包まれないように、私たちはこうして抱き合っている。

フェイは、しばらくじっとそうしていて、私の髪を指先で梳いていった。
フェイ「なあ」
優しい声で私を呼んで、彼が、私の顔を間近で見つめる。
その瞳が優しくて、なんだか照れくさかった。
ナーヤ「フェイ、どうしたの?」
フェイ「ううん。……幸せだなあって思ってさ」
フェイ「俺、お前と結婚出来て、すごく……幸せなんだ」
顔が近づいて、ちょん、と唇が触れた。

―『三世因果典』より

ナーヤ「船に乗っている時に嵐が来たら、どうするの?」
ルヲ「そうだなあ。そん時は、無事に到着できるよう祈るしかないな」
ルヲ「あとは、船室に逃げるか
つっても船室も酷く揺れるし浸水の恐れがある。
とにかく嵐には遭遇しないのが一番だよ」
ルヲ「あとはそうだな。
放り出されないように柱に身体を縛り付けておくとか―」
その時、大きな波がきてぐらりと船が揺れた。
ルヲ「おっと!?」
ナーヤ「わっ!?」
ふらついて、船の壁に背を打ち付けてしまう。
同時によろめいたルヲが、私に覆いかぶさってきた。
ルヲ―っ!?」
鼻と鼻がくっつきかけて、私もルヲも同時に目を丸くする。
けれどルヲはすぐに余裕ありげに笑った。
ルヲ「っとと。危なかったねお嬢さん。大丈夫かい?」
ナーヤ「ええ、私は平気だけれど……。
ルヲも腕は大丈夫?
さっき、すごい音がしたでしょう?」
ルヲ「オレは平気さ。
お嬢さんの顔を、こんなに近くで見られているからね。
腕の痛みぐらい、どうってことはないさ」
ぱちりと片目を閉じて、彼が笑う。
なんだか懐かしいとさえ思える、彼のいつもの仕草だ。
ナーヤ「ふふっ、相変わらずね、ルヲは」
ルヲ「ええ? 相変わらずかい?
この色男の顔を、この至近距離で見ても、いつも通りだって言うのかい?」
ナーヤ「だって、ルヲはルヲでしょう?」
ルヲ「オレはオレ、か……」
くすっと苦笑を浮かべて、ルヲは私の顔を、ずいと覗き込んだ。
目を細めて、彼が色っぽく微笑みかける。
ルヲ「オレから見たら、今の君は愛らしくて、とびきり可憐な白蓮華びゃくれんげのように見えるよ。
思わず―摘んでしまいたくなる」
ルヲ「愛らしいお嬢さん。
これでも、オレはオレかい?」
ナーヤ「……? ええ、ルヲはルヲだと思うけれど……」
こんな顔をするルヲを、よく覚えていた。
マツリカ村で、私たちに冗談を言う時、ルヲはいつも、こうして笑っていたから。

懐かしくて微笑みかけると、ルヲは一瞬息を飲んで、それから、更に顔を近づけた。
ルヲ「いけないよ、お嬢さん。そんなに可愛い顔をしていると。
奪いたくなってしまうからね」
ルヲ「いっそ、ここで分からせてあげようか?」
ナーヤ「……分からせる?」
ルヲ「ああ。こうやって―」

―『三世因果典』より

胡 青凛「……っ、なんて、素敵な思いつきでしょう……。
やりたいです。……やってみたいです!
私と、貴女だけの宴を―」
胡 青凛「一緒に、踊りましょう。
……二人きりでも、きっと、楽しいでしょうから」
そしてその夜、月が天頂に昇った頃―。

宮廷中の人たちが寝静まった後の静寂な庭にて、私たちは誰もいない池の前で、ひっそりと向き合っていた。

部屋にあった布を纏い、即席で対舞の衣装のように見立ててみる。
胡 青凛「さ、私の手を取って」
私の前に、白い手が差し出される。

月の光が地面を照らす中で、私たちは、手を取り合った。
ナーヤ「こう……ですか?」
胡 青凛「ええ、そうです。お上手ですね」
胡 青凛「手を取ったら、次はこうです」
彼が、私の手を引いて、くるりと回る。
軽やかなその動きはとても優雅で、私は、思わず見とれそうになった。
ナーヤ(すごく綺麗……)
ずっと踊りたかったと言っていた通りに、彼は、とても舞が上手だった。

静かに回り、近づき、すれ違い、ふと目を合わせる。
胡 青凛「ふふっ、お上手ですね」
ナーヤ「青凛も。すごく、お上手です」
胡 青凛「本当ですか?」
ナーヤ「はい。……とても」
胡 青凛「ふふっ、良かった。
いつか……誰かと舞う時の為に、練習をしていた甲斐がありましたね」
青凛さんは、静かに私を見つめた。
慈しむような優しさの中に、どことなく寂しさが宿っている。

たった一人で、対舞の練習をしていた時、彼は、どんな事を思っていたんだろう。

いつか出会う伴侶を思って
舞うその日を、楽しみしていたのかもしれない。

なら、彼が思う存分楽しめるよう、私も舞いたかった。

扇や袖を使い、滑らかに舞う青凛さんに導かれ、私も、前へ横へと足を滑らせ静かに舞を続けていく。

私が一歩前へと出れば、彼は、自然とその動きを受け止めてくれた。

初めてなのに、ぴたりと呼吸を合わせて。
私たちは、袖をゆるやかに振りながら舞い続ける。
胡 青凛「……楽しいですね……」
ぽつりと、彼は囁いた。
視線を交わして、私たちは微笑み合う。

裾を翻して、また一歩進んだ。
指先だけで触れ合って、私たちは身を寄せ合う。

地面に落ちる私たちの影は寄り添い合い、舞うたびに月明かりが揺れていた。
さらさらと、帯につけた佩玉が音を立てる。
静かな夜の庭にあるのは、私たち二人の立てる音と、風の音だけだ。
胡 青凛「本当は……ずっと、寂しかったんです。
一緒に舞う人もいなくて。
誰も、私と舞おうとしてくれなくて……」
胡 青凛「でも、今は貴女がいてくれるんですね。
私は一人じゃない……」

―『三世因果典』より

ナーヤ「はい、みんな。乳茶《ツァージャ》を作ってきたの。
温まるから、良かったら飲んでね」
フーリー「わあ……っ、花嫁さんありがとう!」
持ってきた頑丈な敷布を地面に敷いて、作ってきた料理や飲み物を並べていく。

作ってきたのは、カフセや乳茶《ツァージャ》だ。
マオ「わあ……! 美味しそう!」
リンヤン「花嫁さん、これ、食べていい?」
ナーヤ「ええ、もちろん。
みんなの分もあるから、一つずつね」
リンヤン「はあーい!」
子どもたちが我先にとカフセに手を伸ばす。
作ったカフセを嬉しそうに頬張る子どもたちの姿に、ふわっと嬉しい気持ちが湧いてきた。

それからみんなに順番に乳茶《ツァージャ》を注いでいると、ゼベネラ王が私の隣に座った。
ゼベネラ「…………」
ナーヤ「ゼベネラ王も、乳茶《ツァージャ》をお飲みになりませんか?」
ゼベネラ「……いただこう」
乳茶《ツァージャ》を受け取って、ゼベネラ王が、ぐいと飲み干す。
それから、私のことをじっと見た。
ゼベネラ「…………」
ナーヤ「? どうかされましたか?」
ゼベネラ「いや。……そう、気遣いばかりしなくて良い。
……空を見てみろ」
どうやら、私が子どもたちに料理やお茶を出してばかりいて空を見られていないことを、気にかけてくれたようだった。
ナーヤ「ありがとうございます」
乳茶《ツァージャ》を入れた瓶を置いて、私は空を見上げる。
そこに広がる星空に、私は思わず息を呑んだ。
ナーヤ「わあ……!」
ゼベネラ「…………。
ここは、白狼族のみが知る、星見の場所だ」
マオ 「そうそう、秘密の場所なんだよ!
雪山でいっちばん、星空が綺麗に見える場所なんだ!」
ナーヤ「すごい……綺麗な星空……」
リンヤン 「あははっ、花嫁さん、びっくりした?」
ナーヤ「ええ。マツリカ村では、こんな星空、見たこと無かったもの……」
マツリカ村では、夜通し蛍を灯す蛍光塔があった。
蛍たちの灯りが私たちの夜を優しく包み込み、だからか、星空は遠いものだったのだ。

けれど、灯りを殆ど持たずに見上げる星空は荘厳で、私はただただ星を見ることに夢中になる。
ナーヤ「綺麗……」
ゼベネラ「……あそこにある星が、我らの群れを初めに守った尊い狼がなった星だと言われている」
隣に座るゼベネラ王が、ぽつり、と呟いた。
白狼族に伝わる、星の伝承を教えてくれるらしい。
ナーヤ「狼が、星になったのですか?」
ゼベネラ「そうだ。白狼族に伝わる話では、人は皆母なる山に還り、狼たちは星となり我らを照らす」
ゼベネラ「そして、星となった狼たちはネラの日には祖先の魂を導く光となる……そう言われている」
ゼベネラ「星空を流れる星は、かつて我らを守った狼らが我が祖先をつれて渡っている姿だそうだ」
訥々と話すゼベネラ王の低い声は心地よく、彼の言葉に耳を傾けながら、私は空を見上げた。

空を見ていると、一筋の流れ星が夜空をよぎった。
―あれが、星となった狼たちがご先祖様を運んでいる姿なんだ。

なら、お父さんも今、あの星空から、私たちを見守ってくれているんだろうか。
ゼベネラ「……郡王も、きっと見守っているだろう」
私の想いに気づいたのか、ゼベネラ王は、そう言ってくれた。
彼の細やかな心遣いに、微かに胸が痛くなる。
ナーヤ「なら……、父に、伝えないといけませんね。
今、私が幸せだということを……」