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【一】
「関羽、見ててね」
劉備はそう言うと、腰をひねり右手を体の後ろへと回す。
その手に握られているのは、紐を巻いた木製のコマだった。
その表情は真剣そのもの。
額には汗すら滲んでいる。
「えいっ!」
かわいらしい掛け声と共に右手が振られコマが投げられる。
少々勢いに欠いていたものの、コマはかろうじて床の上に立ち回り始めた。
「やった! やったよ!」
飛び跳ねて喜ぶ劉備を、関羽は優しく見つめる。
だけど、その表情には少しの曇りがあった。
何故なら、ここは洛陽にある曹操の邸宅。
眼の前の劉備は人質としてここにとどめ置かれているのだから。
黄巾賊に与しているという疑いをかけられ、身の潔白を証明するために関羽たち猫族は幽州の村を出た。
さらに、曹操に劉備を人質として取られ、彼の配下として戦うことを余儀なくされているのだった。
もっとも、人質とは言っても劉備が手荒な扱いを受けていることはなかった。
こうやって関羽が劉備の元を訪れることも許可されている。
(だけど、いつまでもこのままってわけにはいかないわ)
劉備を連れて自分たちの村へと戻る。
それが関羽をはじめとする猫族の願いだった。
だが、今のところそれを叶える有効な手立ては思いつかないでいる。
ため息が漏れる。
そんな関羽の顔を、劉備が心配そうに覗き込んだ。
「関羽、どうしたの?」
今にも泣き出しそうな劉備の表情に、関羽の胸がチクリと痛む。
「大丈夫よ、劉備。何でもないわ。ねえ、次のコマも回して見せて」
関羽の笑顔に安心したのか、劉備は大きく頷いた。
「うん、分かった。それじゃ次はこっちのコマ…」
と、その時だった。
広い室内に重厚な声が響く。
「来ていたのか、関羽」
その声を聞き違えることなどない。
猫族を人の戦いへと巻き込んだ張本人、曹操だった。
表情を強張らせ関羽は首を動かす。
悠然とした足取りでやって来る曹操が見えた。
すぐ後ろに夏侯惇の姿もある。
猫族に対する侮蔑や憎しみを隠そうともせず関羽を睨みつけていた。
「何故、私の部屋に来ない? 挨拶の一つでもしに来てよいのではないか?」
「あいにく、わたしはあなたに用はないもの。劉備に会いに来ただけだから」
きっぱりと言い放つ関羽に、夏侯惇が叫ぶ。
「貴様! 曹操様に何という口のききかただ」
「落ち着け、夏侯惇」
憤る夏侯惇を片手で制してから、曹操は改めて関羽を見る。
「丁度良かったぞ、関羽。お前に頼みたいことがあったのだ」
「わたしに?」
「街道に黄巾賊が現れたと知らせがあった。十三支数名を引き連れこれを討伐せよ」
劉備が人質となっているこの状況下において、この命令を拒否することなど関羽には不可能だった。
「分かった…わ」
小さく頷くと、関羽は心配そうに自分を見上げる劉備に告げた。
「劉備、それじゃわたし、行ってくるね」
劉備から離れようとする関羽。
しかしその手が劉備によって強く握られる。
「ねえ関羽、だいじょうぶ? あぶなくない?」
今にも泣き出しそうな顔で、劉備が関羽を見上げている。
「心配しないで、劉備」
不安がる劉備に、関羽は優しい声で語りかけた。
「わたしはちゃんと帰ってくるから。劉備を一人ぼっちになんてしないから。約束よ」
劉備の頭に手を乗せ彼の銀髪を軽く撫でると、関羽は部屋を後にする。
「曹操様!」
堪えきれなくなった様子で、夏侯惇が声を絞り出す。
「十三支などに命令せずともこの俺が!」
「不満か、夏侯惇。ならばお前も共に向かうがいい」
曹操の提案に、夏侯惇は意気込み頷く。
「………はっ。十三支の力など必要ないということを、この俺が奴らに思い知らせてやります」
夏侯惇は一礼すると、強い足取りで部屋を出て行く。
「ふっ、思い知らされるのは一体どちらなのだろうな」
曹操は、静かに笑いを漏らした。
【二】
「ったく、面白くねー」
関羽のすぐ隣で、張飛が大声でぼやく。
「いつまで曹操のヤローにこき使われ続けなきゃなんねーんだよ」
曹操の命により、街道の偵察に向かう途中だった。
関羽、張飛、そして猫族の精鋭数名が一塊となり歩いている。
「仕方ないのよ。張飛、劉備が人質に取られているんだから。素直に従うしかないわ」
「んなの分かってんよ。オレたちはここで戦い続けるしかないってんだろ」
張飛は、その視線を少し先を歩く夏侯惇の背中へと向ける。
そして、彼に聞こえるような大声で言い放った。
「劉備のためだ。いけ好かねーヤツとだって、一緒に戦ってやるよ」
「ちょっと、張飛」
関羽が窘めるも遅かった。
夏侯惇は足を止めゆっくりと振り向く。
「勘違いをするな」
押し殺した声で、夏侯惇は言った。
「俺は十三支と共に戦うつもりなどない。ここに来たのは、貴様らに思い知らせるためだ。
貴様らの力など、曹操様には必要ないということをな」
「そっちこそ勘違いしてんじゃねーよ。
そもそもオレたちは曹操の力になりたいなんてこれっぽっちも思ってねーし」
嘲弄するかのように張飛が鼻を鳴らす。
「劉備を人質にまでしてオレたちの力を使いたがってるのは、曹操のヤローなんだぜ」
「ぐっ」
事実を突きつけられ、夏侯惇が口ごもる。
「…曹操様も、いずれお分かりになるはずだ。こんな連中の力など必要ないということが」
自分自身に言い聞かせるように夏侯惇が呟いている時だった。
関羽が緊張した声で告げる。
「みんな、気を付けて。黄巾賊よ」
わらわらと姿を現したのは、二十名近い男たちだった。
頭には黄巾賊の証たる黄色の布が巻かれている。
「洛陽から兵が送られてきたか。少し派手に暴れすぎたようだぜ」
「まあいい、この辺りでは十分稼がせてもらった。また別の場所に行くだけだ」
「おっと、その前にこいつらをぶっ殺しておかないとな」
黄巾賊たちはそれぞれに武器をかまえた。
数の上でははるかに勝っていることから、余裕の笑みを浮かべている。
その笑みが凍りついたのは、無言で剣を抜いた夏侯惇が一撃で近くの敵を斬り倒した後だった。
その強さに黄巾賊たちも色めき立つ。
「こいつら、ただの偵察兵じゃない」
「ええい、全員でかかれ!」
一斉に黄巾賊たちが襲いかかってくる。
「何人束になろうと同じことだ!」
夏侯惇は一群の中へと飛び込んだ。
下手な小細工、小手先の技などに頼らず真っ向からぶつかっていく。
実直な彼らしい戦いだった。
「とくと見ろ! 十三支! これが、曹操様のため練り上げ鍛え続けた俺の武だ!」
思い知らさんと力強く剣を振りつつ、夏侯惇は関羽の方へと目を向ける。
「!?」
息が、一瞬止まった。
関羽は、しなやかな身のこなしで敵の刃を避けつつ手にした偃月刀を振るっていく。
一流の武を持つ夏侯惇だからこそ、関羽の強さを一瞬で見抜き驚嘆する。
(あの女、強い。ひょっとしたら今の俺以上に…)
蔑むべき存在である十三支の女が、自分より武で勝っている。
それは到底認められることではなかった。
「そんなはずはない!」
声を荒げると、夏侯惇は自分の戦いに戻る。
これまで以上に激しく敵を斬り倒していく。
敵の放った矢が頬をかすめうっすらと血が滲んだが、痛みすら感じなかった。
やがて、最後の一人が地面へと倒れた。
「終わったわね」
ふうと息を吐く関羽の鼻先に、夏侯惇は自らの刃を突きつけた。
「女、俺と立ち合え! 今ここで!」
「えっ!?」
「戦え! 俺の武の方が優れていることを証明してやる!」
「テメー! なんだよいきなり」
不満気に張飛が鼻を鳴らす。
「だったらオレが相手してやるぜ!」
「止めて、張飛」
拳を握り締める張飛を、関羽が嗜めた。
そして、夏侯惇に顔を向けはっきりと言う。
「わたしは、無意味な戦いをするつもりはないわ。
少なくとも、あなたとわたしは敵同士ではないんだから」
関羽は懐から折りたたんだ布を取り出した。
夏侯惇へと歩み寄ると、彼の頬へと手を伸ばす。
傷に布をあてがった。
「な、何をする!」
夏侯惇が関羽の手を振り払う。
「驚かないで、ただ血を拭っただけよ」
関羽は、夏侯惇の手に布を握らせた。
「大した傷じゃないけど、少しこれで抑えておいた方がいいわ」
「なっ……」
「姉貴! もう帰ろうぜ。いつまでもこんなヤツの相手することないぜ」
張飛が、苛立った様子で言う。
「そうね」
夏侯惇をその場に残し、関羽らは元の道を引き返していく。
(あの女は、俺を奮い立たせるに十分たる武を持っている。しかし、それだけではない)
夏侯惇は、関羽に渡された布に目を落とす。
(ただ傷口を拭かれただけだと言うのに、どうして俺はこんなにも動揺している?
どうして俺の心はこんなにもかき乱されているんだ)
答えの出ない疑問に、夏侯惇は一人葛藤し続けたのだった。
【三】
賑わう洛陽の中心部を、戦いを終えた関羽と張飛は歩いていた。
共に戦った他の猫族はすでに居留地へと戻っている。
「張飛、無理に付き合うことなんてないのよ。曹操への報告ぐらいわたし一人でも」
「い〜〜〜んだって。オレがそうしてーんだから」
言い張りつつ、張飛は内心で呟く。
(姉貴ばっかに苦労させられないぜ)
先程の戦いにおいて、張飛はまだまだ自分が関羽に遠く及ばないことを感じていた。
それは、単純な強さだけの問題ではない。
(夏侯惇に挑発されても、姉貴は冷静だったもんな。それに比べてオレは……)
このままでは、いつまでたっても自分は出来の悪い弟のままなのではと張飛は危機感を覚える。
だからこそ、曹操への報告を関羽一人に任せる気にはなれなかった。
せめて苦労を共にし頼れる男へと成長したいと思ったのだった。
「とにかく、オレは姉貴と一緒に行く。
曹操のヤローんとこに姉貴一人で行ったら、何されるか分かったもんじゃねーからな」
強くそう主張する張飛。
と、その足が止まった。
「!? なんでアイツがこんなとこいんだよ!」
怪訝そうに顔をしかめる。
「張飛、どうしたの?」
「い、いや、何でもねーよ! 姉貴、別の道から行こーぜ」
「どうしてよ。この道が一番早いのよ」
「いや、たまには遠回りも悪くねーと思って。な? いいだろ?」
どうにかして関羽を別の道へ誘導しようとする張飛。
強引さに押され一度は従いかける関羽だったが、
「あ、趙雲!?」
前方に立つ見知った若者の姿に気付く。
関羽の声が聞こえたのだろう。
若者がこちらに顔を向けた。
爽やかな笑顔と共にやって来る。
「久しぶりだな、関羽」
「趙雲、どうしてあなたがここに?」
「公孫賛様の使いでな。夜にはもう北平へ向けて戻らなければならないのだが、良かった。
お前とこうやって会うことが出来て」
趙雲は、関羽の瞳をまっすぐに見つめ続ける。
「お前と会えない日々が、俺にはどうにも空虚なものに思えて仕方がないのだ。
時折、お前のことばかり考えている自分に気付く。一体何故だろうな?」
まるで意識せずこういうことを言ってしまうのが趙雲という男だった。
「えっと」
あまりこういった言葉に慣れていない関羽は、少々気恥ずかしくなってしまう。
「ん?」
そこで、趙雲が小さく声を上げた。
「関羽、その汚れは?」
「あ、これね」
関羽が、砂埃で汚れた自らの着物を見た。
「今、ちょっと外に出ていたから」
黄巾賊と戦っていた…とは言わなかった。
関羽を普通の女性として扱ってくれる趙雲に、武器を手にする自分を少しでも隠したかったのだ。
「そう…か」
それ以上追求することなく、趙雲は頷く。
それから、何かを思いついたように口を開いた。
「関羽、俺に着物を買わせてくれないか?」
「えっ?」
「ほら、すぐそこに着物を売っている店がある」
趙雲が、立ち並ぶ露店の一つを指差す。
煌びやかな着物ばかりを集め売っている店があった。
「趙雲、せっかくだけど、わたしは着物なんて」
「いいから行こう。公孫賛様からも、猫族と会ったら労を労ってやるようにと言われている」
関羽の手を掴み、半ば強引に引っ張っていく。
「ちょっと待てええええ!!!」
張飛が、ずっと溜めていた不満を爆発させた。
「趙雲、オマエなに勝手なこと言ってんだよ! 姉貴が嫌がってんじゃねーかよ!」
二人の手を引きはがすと、趙雲の前に立つ。
「姉貴の着物を買うなんて余計なお世話なんだよ。
そもそも、姉貴がどんな着物が好きなのかも知らねーくせに」
「確かに、俺は関羽と知り合ってまだ日も浅い。どんな着物が好きなのかまでは知りえないことだ」
ゆっくりと首を振る趙雲だったが、
「しかし、関羽にどんな着物が似合うかは分かるつもりだ」
堂々とした態度で言い放つ。
「そう、例えは…」
趙雲は着物屋へと向かうと、一着の着物を選びそれを持ち上げて見せる。
「これなどはどうだろうか?」
淡い若葉色の着物だった。
「関羽の美しさには、この色がよく似合うと俺は思う」
「バッカ! オマエ何にも分かってねーよ!」
対抗意識に火がついたのだろう。
張飛もまた着物屋に直撃し、一着の着物を手に取る。
朱に染められた布地で作られた着物だった。
花の模様があしらわれている。
「姉貴にはこれぐらい情熱的な着物の方がいーんだよ!」
二人の意見は真っ向から対立した。
お互いに一歩も引かない様子だった。
「ねえ、二人とも。いい加減に…」
「よし、だったらこっちはどうだ!? この華やかな飾りが姉貴にピッタリだぜ!」
「こちらの着物も悪くない。この光沢が、関羽の美しさを包み込んでくれる」
二人の着物選び合戦は終わる気配を見せなかった。
ふうとため息をつくと、関羽はその場を後にする。
「もう、二人とも人の話を聞かないんだから」
関羽が口の中で小さく呟く。
(あんな煌びやかな着物、わたしには必要ないものだわ)
そう思う反面、小さな不安も感じる。
関羽は自分の服装を見る。
身動きのとりやすい軽装だ。
戦いを終えてきたそれは、砂埃で汚れている。
(こんな格好じゃ、女の子として問題ってことなのかな?)
そんなことを思い、少々暗澹たる気持ちになっている時だった。
「こんにちは、関羽さん」
すぐ後ろから声をかけられる。
春の日向を連想させるような、穏やかで落ち着いた雰囲気の声だった。
足を止め振り向くと、優しい微笑みを浮かべた若者が立っている。
「すみません、ひょっとして驚かせてしまいましたか?」
「ううん、大丈夫よ」
関羽は、笑顔を作って見せた。
「今日は呂布と一緒じゃないのね?」
「はい、呂布様はご自宅で休んでおられます。私は、呂布様が注文していた化粧品を受け取りに」
張遼は、手にしていた包みを持ち上げる。
「ところで関羽さん。浮かない顔をしていましたけど、何か悩み事でも?」
「悩みって程のことでもないのだけど」
少しだけ迷ってから、関羽は口を開く。
「ねえ、張遼。わたしも、少しはお洒落した方がいいと思う?
例えば呂布みたいに綺麗な着物とかを着たりして」
「そうですね、確かに着飾った関羽さんも魅力的だと思いますが」
そう前置きしてから、張遼は笑顔で答える。
「しかし、今のままで十分ではないでしょうか?」
「本当に? こんな砂まみれでも?」
「それが貴女の美しさを損なわせるとは思えませんよ」
張遼は、続けてこう言った。
「呂布様もまた美しい方です。
しかし、それとはまったく違った美しさを私は貴女から感じます。
生命力の輝きとでも申しましょうか? それが、私にはひどくまぶしく思えるのです」
張遼は、そっと両手を関羽へと伸ばした。
そして、関羽の着物についた砂誇を軽くはたき落とす。
「ほらこのとおり、汚れなどいくらでも拭い落とせます。
貴女はもっと自分の美しさに自信をもつべきだと思います。
鮮やか着物など必要ありません。貴女は今のままで十二分に魅力的な方です。
それは、私が保証いたしますよ」
張遼の言葉に関羽は嬉しくもあり、気恥ずかしくもなってしまう。
「あ、ありがとう。張遼。それじゃわたし、用事があるから」
まるで逃げるように、その場を後にしたのだった。
【四】
少し薄暗くなり始めた夕暮れ時。
曹操の邸宅に関羽は到着する。
門番に用件を告げると、関羽はすぐに曹操の部屋へと通された。
さほど長く待たされることなく、曹操が姿を現す。
関羽の目の前、一段高くなった床へと曹操は腰を下ろした。
「待たせたな。関羽」
「一応報告に来たけれど、ひょっとしたらもう夏侯惇から聞いていたりするかしら?」
関羽の問いに、曹操が軽く頷く。
「そう、ならもう必要ないわね」
「待て、関羽。まだ話は終わっていない」
立ち上がる関羽を曹操が呼び止める。
「夏侯惇が、報告の中でしきりに口にしていた。お前は油断のならない女だ…と。
いつになくおぼつかない様子でな。あれは一体どういう意味だ?」
関羽にはまるで見当が付かなかった。
「そんなの分からないわ。本人に聞けばいいでしょ」
背中を向け去ろうとする関羽の腕を曹操が握る。
「私は、お前から話を聞きたいのだ」
「痛いわ、離して。曹操」
小さな悲鳴を上げる関羽。
そんな姿が、曹操の内に秘めた欲望をかき立てる。
(今回の件で、夏侯惇が十三支の力を認めることになればと思っていた。
しかし、結果はそれ以上だ。夏侯惇は関羽という存在に何かを感じたのだ。
一体何があった? 関羽は夏侯惇に何を見せた?
それは、まだこの私にも見せたことのないものなのか?)
嫉妬にも似た感情が込み上げてくる。
突然強い力で曹操は関羽を抱き寄せた。
「ちょっと曹操、何を!?」
「なるほど、こんな夜半に男の元にやって来るのは確かに油断ならないな」
そんな言いがかりをつける。
まだ夕方だと反論しどうにかこの状況から逃れる糸口を見つけようとする関羽だったが、
すでに日はほとんど沈みかけていた。
まだ蝋燭をつけていない部屋は薄暗い。
曹操を跳ね除けようとする関羽だったが、その耳元で囁かれる。
「抵抗するつもりか? それも良かろう。
だが、忘れるな。お前の一番大切なものが今どこにあるのかを」
曹操が暗に劉備のことをほのめかす。
(ここでわたしが曹操に抗ったら…劉備が…)
関羽が絶望を感じた瞬間だった。
「待て! そっちは曹操様の部屋だぞ!」
ドタバタという慌しい足音と共に、そんな声が響く。
「関羽、関羽どこ!?」
劉備の声だった。
(劉備!)
反射的に関羽は曹操を突き飛ばした。
そのまま部屋を飛び出す。
長い通路の向こうから銀髪の少年が走ってくるのが見える。
劉備だ。
「あ、関羽!」
「劉備!」
通路の中央で、二人はしっかりと抱きしめあう。
「お仕事終わったんだね。おかえり、関羽」
関羽の耳元で、劉備が囁いた。
曹操に迫られた衝撃でざわついていた心が、劉備の一言で落ち着きを取り戻す。
劉備の口にする『おかえり』の一言が、どれほど自分を癒してくれるのかを関羽は改めて感じていた。
「こら、待て!」
劉備を追いかけてやって来たのは夏侯惇だった。
「勝手に邸宅中を走り回ったりして。さあ、来い」
「やだー! ぼく関羽といっしょにいる!」
劉備が関羽の腕にしがみ付く。
強引に二人を引き剥がそうとする夏侯惇に、曹操の声が届いた。
「もうよい。こちらの話は済んだ」
曹操が、通路をゆっくりと歩いて来る。
「行くがいい、関羽」
間羽は無言で曹操を睨みつけると、劉備の手を握り足早に立ち去っていく。
「夏侯惇、一体何があったのだ?」
「ハッ」
夏侯惇がその場に跪く。
「劉備にあの十三支の女が邸宅を訪れているとつい漏らしてしまい、結果このようなことに。
申し訳ありません」
「いや、お前に礼を言いたい気持ちだ。
お前のおかげで、私は目を覚ますことができたのだからな」
「は、はあ」
曹操の真意が分からず、夏侯惇は少々困惑する。
「もう下がれ。少し一人になりたい」
「ハッ、失礼いたします」
一礼すると、夏侯惇は通路を後にする。
残された曹操は、自嘲気味に呟く。
「たかが『駒』を相手にああも私の心が高ぶるとは…」
少し間を開けてから、曹操は軽く笑う。
「ふっ、夏侯惇の言うとおり。油断のならない女なのかもしれないな」
【五】
少しだけ劉備と会話を交わしてから、関羽は曹操の邸宅を後にする。
すでに町からは人の姿は消えていた。
皆、それぞれの家へと戻ったようだ。
「さ、わたしも帰らないと」
猫族の駐留地へと道を歩いている時だった。
関羽の耳にその声が届く。
「姉貴!」
張飛だった。
こちらに向かって駆け寄ってくる。
(ひょっとして、またしつこく着物を進めるつもりなんじゃ?)
身構える関羽だったが、少し様子が違っていた。
眼の前までやって来た張飛は、深く頭を下げる。
「ゴメン! 姉貴一人で曹操の所に行かせちまって。大丈夫だった? 何もされなかった?」
曹操に抱きすくめられたことが頭を過ぎるも、関羽は何事もなかったかのように答える。
「心配いらないわ。ただ報告をしただけよ」
「よかったー。でも、ホントにゴメン! もうぜってー姉貴一人で行かせねーから!」
張飛が再び関羽に頭を下げた直後だった。
今度は趙雲が関羽の元に駆けつける。
こちらもまた、関羽に謝罪の言葉を口にする。
「関羽、お前の意見も聞かず、強引に話をすすめてしまい本当にすまなかった」
「そのことに関してはオレも同罪だぜ。姉貴のこと放ったらかしにして盛り上がっちまって」
バツの悪そうな顔でそう言ってから、張飛は少々照れ臭そうに続けた。
「それにさ、姉貴。趙雲と散々言いあったけど、結局姉貴には、
あんなキレーな着物なんて必要ねーんじゃねって話になってさ」
「ああ。どんな格好をしていようとも、お前の美しさは変わらない。
それを見失っていたとは。俺は自分を情けなく思う」
趙雲が大きく慨嘆する。
素のままの自分の魅力を認めてもらい、関羽は嬉しさと少しの恥ずかしさを感じる。
「もし、こんな愚かな俺を許してくれるなら。
俺が洛陽を立つまでの少しの間、共にいてくれないか?」
真剣な眼差しの趙雲に、関羽は大きく頷いた。
「ええ、もちろんよ」
「ちょっと待てぇ!」
黙ってられないのは張飛だった。
邪魔をするかのように二人の間に割って入る。
「姉貴、そんな暇ねーだろ? みんな、待ってるんだから早く帰らねーと!」
「大丈夫よ。遅くなるかもしれないってちゃんと伝えてきているから。心配なら張飛だけ先に戻る?」
「そうだな。お前まで俺たちに付き合うことはないしな」
ひたすら爽やかに趙雲が言う。
「じょ、冗談じゃねーぞ! もちろんオレも一緒だ! どこにだってついていくからな!」
張飛の固い決意が、夜の街に響き渡ったのだった。
おわり
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