●Case.1 藤森沙弥の場合

 ――タマヨリヒメ、タマヨリヒメ、タマヨリヒメ――

 誰……?

 ――起きろ、タマヨリヒメ――

 私のことを呼んでいるの……?
 遠くから木霊するように聞こえてきた『声』に心を傾ける。
 閉じていた意識が覚醒すれば、その呼びかけも明瞭な響きを持つ。

『タマヨリヒメ』

 どこかで聴いたことがある、私もよく知っているはずの声。
 でも、どうしてか思い出せない。
 思い出すことを、私の中の何かが拒んでいるのかもしれない。

 そうだわ、だって……。

「私は玉依姫じゃないもの」

『はァ? 何言ってンだ、おめェ?』

「何って――」

『おめェ以外の誰が玉依姫だってンだよ』

『待て鉄平。もしかしたらコレは沙弥流のギャグかもしれない。
 だとすると、気の利くカミとしては爆笑してやるべきかも』

『いや、だとしても笑えねェ類のギャグだろ』

 ……なんだろう……。
 ふたつの声が争うように聞こえてきて、頭が痛い。
 でも、こんなやりとりさえ、何故か懐かしい。

「あのね、私はもう、玉依姫としての力を失ってしまったの。
 昔は確かにそう呼ばれていたけれど、今は――」

『あァ!? 玉依姫は玉依姫に決まってンだろが、バァーカ!!』

『バーカ』

「…………」

 ふたつの『声』は、私の言い分をまったく聞き入れてくれなかった。
 普通なら、困惑して何も言えなくなっていたかもしれない。
 でも……。
 諦めないで根気強く話していけば、『彼ら』とも話は通じるはず。
 私は、頭のどこかで、そう知っていた。

「あの……。私に力がなくても、玉依姫と呼べるの?」

『当ッたり前ェだろ!』

『むしろ、俺たちの玉依姫はあんた以外にいない』

 そういうものなのかな……。正直、よくわからない。

『あ』

「……ど、どうしたの?」

『ヤベェ。無駄話してたから時間切れだ』

「時間切れ?」

『せっかく沙弥に呼びかけられたってのによォ……。
 まともに話もできなかったじゃねェか、このバカ恭!』

『今回に限ってはあんまり俺のせいじゃないはず』

『けどよォ、だったら少しはマトモに話を進ませようとか努力してくれてもイイだろ!?』

『努力は鉄平に任せた。俺の担当は1%の才能だから』

『俺が99%かよ、オイ!?』

「……あ、あの……」

『まァ、イイ。とにかく、沙弥』

「は、はい?」

『近いうちに会いに行くからよろしく』

「え……!?」

『バイバイ、さらさらストレート』


「…………」

 そして、私は目が覚めた。
 夢の内容は不思議なくらい、はっきりと覚えていた。
 夢の中では思い出せなかったけれど、あの声は間違いなく、あのふたりだ。

「でも、まさか、そんな……」

 あのふたりは黄泉ノ門を――寒名の封印を守っているはず。
 簡単に地上へ出てこられるはずがない。

「夢よね、たぶん。ただの、夢……」

 あのふたりが出てくるなんて『何か』が起きたとしか思えないもの。
 だから、会えないに越したことはないのだ。
 久しぶりに彼らの顔を見てみたいような気もしないでもないけれど、
 でも……。
 私が抱えているほんの少しの期待と、寒名の平和なら、
 天秤にかけられるものではないと思うから。

 これは、ただの夢。

 迷いを断ち切るように、もう1度呟いて、私はベッドから身を起こした。




●Case.2 狐邑玲の場合

「おはようございまーす」
「ごめんなさい、遅れて……」

 エントランスホールから駆け出してきた先輩は、あわてたように謝罪して。
 それから、マンション前の木陰に俺しか立っていない事実に気付き、
 たっぷり5秒はフリーズした。
 うーん……。
 なかなかの驚きっぷりだ。
 ということは、今日の約束をすっかり度忘れしているに違いない。

「……おはよう、狐邑くん。凌さんは……?」

「大蛇先輩は今度の学内行事がなんたらで風紀委員会の仕事があるから、
今日は一緒に行けないって話でしたよね?」

沙弥先輩は目を瞬いた。

「あ……」

彼女は何事か言いたげに唇を開きかけたけれど、俺は矢継ぎ早に言葉を重ねる。

「でも、先輩をひとりにするのはすごく心配だとかなんとか、
大蛇先輩が相変わらず、やたらと過保護なこと言い出したんで、今日は俺がお出迎えしたわけなんですけど……」

こういうのを意地が悪いと言うのかもしれない。

でも、彼女が目を白黒させているところは結構好きで。
困っているところも怒っているところも嫌いじゃないというか、
むしろずっと見ていたいくらいだから、つい、からかいたくなってしまう。

「まだ、寝惚けてるんですか?」

普段なら第一声は『ごめんなさい』だけれど。
今日の先輩は、意外にも困ったように眉を寄せると苦笑した。

「そうみたい。まだ、夢から覚めていないのかもしれないわ」
「夢?」

それは、ちょっとわかるかも。
俺たちが普通に生きている、この現実のほうが夢みたいな感じ。
ふたつの組織が『黄泉ノ門』なんて厄介なものを争って、戦って、この街は大きな被害を受けた。
市民に怪我人が山ほど出たし、不幸にも命を落とした人もいた。
最新の技術が詰まったビルも道路も容赦なく壊れたし、市役所なんて、特にとんでもないことになった。

それが、事件から数か月で、あっという間に復興してしまう辺り、
国が寒名市に与えている財力は計り知れないものだと思うけれど。

「少し前まで、守護者とか玉依姫とか言ってたのも、夢みたいですよね」

俺たちを縛っていたはずのものにさえ、今は、まるで現実感がない。
でも、俺は自由を奪っていたものから解放されて、
ようやく、彼女を『玉依姫』としてじゃなく、ただの女の子として見られるようになった気がする。
今日は珍しく寝癖のついている髪とか、素直にかわいいなと思える。
こんな無防備な先輩の姿を他の人に見せるのはもったいないし、
学校に着く直前になったら、教えてあげてもいいかな。
それまでは寝癖の先輩を満喫させてもらおう。

だけど、もし……。

もし、あの戦いが少しだけ違う結果を生んでいたとしたら。

俺が、ただの女の子としてだけじゃない、玉依姫としての先輩にも、
心底惚れていた未来があったのかも、なんて……。

ちょっと自分でも想像しにくいことを想像してみた。

……俺も、今日は寝惚けているのかもしれない。




●Case.3 狗谷志郎の場合

ターゲット発見!

「ひーーーーーめーーーーーーー!!」

ちょうど学校の校門を通り抜けようとしていたふたりに――というか、
主に姫ひとりに気付いてほしくて声を張り上げる。
目論見通り、姫は肩をびくっと震わせてからこちらを振り向いてくれた。
思いのほか驚かせてしまったかもしれない。ごめんな、姫……!

校門まで目測およそ50m。全力疾走で、ほんの数秒の距離だ。

砂埃を巻き上げながら走る俺を見て、ギョッとしている生徒もいれば、
慣れたもので、笑いながら手を振ってくるクラスメイトもいる。
俺が姫を大好きだという事実は、別に隠すようなことじゃないから、
公に認知されていると逆にちょっと安心できるような気がする。

なんていうか、公認カップル、とまでは行かなくていいんだけど、
『公認・姫と俺』みたいな関係にはなりたいっていうか!

――なんてことを考えている間に、俺はふたりに追いついた。

「姫、俺を忘れてくなんてひどい!」
「ご、ごめんなさい、狗谷先輩……!」

しまった。
思わず子供みたいな駄々をこねてしまったけれど、姫が謝ることは何もないんじゃないかな……?

「沙弥先輩は悪くないんじゃないですかー?
時間通りに来なかった狗谷先輩に責任があるわけだし、あのままのんびり待ってたら、俺たち遅刻してましたよ」
「確かに怜の言うことは正論だよな……。姫は全然悪くない!」
「いや、ひどいって言い出したのは狗谷先輩ですからー」
「けど、全力で走れば遅刻しないでちゃんと間に合ったぞ?」
「俺、朝から走りたくないんで」

普通に怜と話しながら、ふと横を見ると、姫は困ったようにおろおろしていた。
俺としたことが……!
少しの間とはいえ、姫をないがしろにしちゃうなんて!

「いや、ごめん、姫!
実は姉ちゃんが居間で気絶してたもんだから、その介抱に手間取ってる間に、約束の時間を過ぎちゃってて……」
「理佳子さんが!? 大丈夫だったんですか……?」
姉ちゃんのことを本気で心配してくれる姫。
なんて優しい子なんだ。
やっぱり、俺はこんな姫が大好きだ!!

「……あの、狗谷先輩……?」
「あ、ごめん。姉ちゃんなら大丈夫。ぐうぐう熟睡してたから。昨日も仕事で徹夜して、結局、朝帰りしたみたいなんだ」

寒名復興計画の関係で、典薬寮の仕事が最近は半端なく忙しいらしくて、
師匠も姉ちゃんも寝る間を惜しんでいるらしい。
俺は身体を動かすほうは得意だけれど、書類整理とかデータ管理は全然ダメだから、
あんまり手伝ってやれなくて、正直、心苦しい。

「とにかく、ごめんな、姫。いきなりひどいとか言っちゃって」
「狗谷先輩が謝ることないです。私も、今日は少し寝惚けていたみたいで、すっかり……」
「う」
すっかり存在を忘れられていたというのは厳しい現実だ。
「…………」

あ。怜が憐みの眼差しを俺に送ってきてる。

でも、こんな毎日も悪くないよな。

姫は玉依姫としての責務から解放されたわけだけど、
俺は変わらず、姫のことを守りたい。だから、俺たちの関係は何も変わらない。

俺は姫を守るために産まれてきたんだと思ってるし、
なんていうか、上手く言えないんだけど……。

姫が玉依姫じゃなくても、姫が姫であることに違いはないって、そう思うんだ。



●Case.4 鴉取駿の場合

朝。HRが始まるまでの時間を、僕は適当に過ごすことにしている。

それなりに余裕がある日は、温室まで行って植物の世話をする。
世話を終えても時間が余っているときは中庭に行く。
何か目的があるわけじゃないけれど、今日の陽射しはどれくらい強いのかとか、
空を埋めている雲の割合だとか、雲の色の濃さだとか、
些細な日常の変化を感じるのが好きだ。
だから最近、少しずつ冬が近づいてきているんだなって、しみじみ感じる。
肌に感じる空気の温度が低くなって、乾いた木枯らしが耳の隣を吹き抜けていく。

寒名で過ごした今年の秋は、とても深く心に刻まれるものだった。
だから、去り行く季節が今は少しだけ惜しまれてしまう。

僕は、この秋、この街で、生涯忘れられない出逢いを得たのだから。

この秋が終わることで、彼女を失うことになるとは思わないけれど、
なんとなく寂しさを感じる自分をどうすることもできなかった。

「……気にしすぎなんだろうけど」

おそらく気にしているのは僕だけだろう事実も、また少し寂しい。
……まったく我儘な話だ。
そんな自分に少し腹を立てながら、僕は校舎に戻ってきた。

自分の教室に向かう途中、廊下に響く明るい声に気付いた。
聞き慣れた声だ。
狗谷先輩――玉依姫の守護者として、共に死線を潜り抜けた仲間の声。
彼が藤森さんを2年の教室まで送り届けるのは珍しいかもしれない。
そのまま狗谷先輩は元気よく階段のほうへ向かって行ったけれど、
思わず注視していたら、彼女が、僕の存在に気付いてくれた。

「おはよう、鴉取くん」
「おはようございます、藤森さん」

笑顔で交わす、なんでもない挨拶がすごくうれしい。
彼女と知り合えてよかった。
幼いころは自分の『力』に悩み、孤独を感じたこともあったけれど、
僕がこの『力』を持って生まれたことに意味はあったんだと、
玉依姫は教えてくれた。

藤森さんに、出逢えてよかった。

「鴉取くん……?」
「あ。すみません、少しボーッとしていたみたいです。藤森さんの笑顔を見ると癒されるなぁって」
「!?」

失敗。つい本音が漏れてしまった。
僕は早く話題を変えたくて、なんでもないように微笑みながら尋ねる。

「今日も昼休みに会えますか?」
「う、うん。天気がいいから屋上に行くつもりよ」
「わかりました。楽しみにしています」

最近、昼休みはなんとなく『みんな』で集まってお昼ごはんを食べる。
そういう賑やかな時間は楽しくて、悪くないものだと思う。
……そう思う僕は少し、物好きなのかもしれないけれど。

本当に最近はいいことばかりだ。
長年、原因不明の病に悩まされていた弟の状態も回復しているし、
あの組織に使われることもなくなった。
そんな僕が、最近、どうしようもなく気にしているのは……

やっぱり、彼女の存在そのものなのかもしれない。



●Case.5 犬戒響の場合

受験が近い。
そのため、3年の教室は居心地が悪い。

緑尾学園は進学校だ。
狗谷のように、学力というものを持ちえていない残念な生徒は稀だ。
もはや存在していることが奇跡に近い割合と言える。
最近は休み時間を待ちかねたように受験勉強を始める生徒が増え、
暇な時間は適当な書籍を開いたり、ペーパーディスプレイでニュースを眺めたり、
少なくとも学校で学業に勤しむつもりのない俺は浮いてしまう。
学年主席の俺が昼休みに勉強もせず本を読んでいると、他の生徒は複雑だろう。

別に、クラスの連中からどう思われても構わないのだが、
俺のせいで彼らの集中力を削ぐのは少し……悪い気がする。

だから。
俺はささやかな良心の従う形で、昼休みになるとわざわざ屋上に避難してやっているのであって。

「こんにちは、犬戒先輩」

そんな俺を見て、藤森沙弥が笑いかけてきたとしても、それは別に、どうでもいいことなわけだが。

どうでもいいがゆえに、笑顔の彼女に何と返答したものか悩んで、 俺はしばし、仏頂面を晒してしまう。
藤森沙弥は少し戸惑うように表情を曇らせたが、
度胸がついてきたと言うべきか、以前より賢くなったと言うべきか、
無意味にうつむいてしまうことはなくなった。

まあ、そんなところは評価してやらないでもない。

俺が屋上に来ているのは彼女のためでも俺自身のためでもなく、
罪のないクラスメイトたちのためであるという事実は、変わらないわけだが。
……まあ、少しは彼女のためもあるかもしれない。
俺が顔を見せないと藤森沙弥は無意味に落ち込みそうだからな。


うるさく騒いでいる他の守護者たち――今日は主に狗谷と鬼崎――を、
できるだけ視界に入れないよう注意しながら、俺は柵側に陣取る。
すると……。
彼女は、何故か少し奴らの目を気にするようなそぶりを見せたあと、俺の傍までやってきた。

「あの、犬戒先輩」
「なんだ」
「私たちからは、もう、『力』が消えてしまったんですよね……?」

おかしなことを言う。
力の有無など、玉依姫である彼女自身が誰より知っているはずだが。

「犬戒先輩も、もう『言霊』を遣えないんですよね……?」
「残念ながらな」

俺の返答に、彼女は安堵したような、けれど少し残念がるような、複雑な色の微笑みを見せた。

事情はよくわからないが、頼られるというのは悪くない。

玉依姫と守護者に関することで何かの疑問が浮かんだのなら、
他の誰を頼るよりも、この俺に尋ねるべきだ。
その道理を理解している藤森沙弥は実に見どころがあると思う。
たとえ『力』を失ったとはいえ……。

さすがは玉依姫、と言うところか。



●Case.6 大蛇凌の場合

「ごめん、沙弥」
「どうして謝るの?」
「えっと……。今朝は沙弥を置いて、俺だけ先に学校へ来てしまったし、
昼休みも合流が遅れたせいで、せっかく君が作っておいてくれたお弁当を
ほとんど会話らしい会話もしないで食べるだけになってしまったし、
今だって待ち合わせの時間に10分も遅れた。
一緒に帰ろうって言ったのは、俺のほうだったのに……」

すると、沙弥は困ったように微笑んだ。
その笑い方はとても優しくて、同時にとても大人びて見えて、
俺は内心、ドキッとしてしまった。

「ねえ、凌さん。私もよく鬼崎くんから謝りすぎだって叱られるけれど、
凌さんも謝りすぎなのかもしれないって思うわ」
「……そうかな……」
「そうよ。委員会の仕事があって朝早く出なければならないのは、凌さんのせいじゃないもの。
私だって、一緒に学校へ行けなくても、すねたりしないわ。
小さいころはひとりで街中を歩くのが少し怖くて、不安に思うこともあったけれど……」
「今は、違う?」
「うん」

沙弥は成長した。本当に、ずいぶん大人になってしまった。

最後まで守護者らしい働きができなかった俺自身を省みると、
どうしても置いて行かれたような気がして……
少し、辛い。

本当は全部、わかっているんだ。

彼女と一緒に学校に行きたかったのは俺だし、
昼休みをできるだけ長く過ごしたかったのも俺だし、
待ち合わせに遅れた10分さえ惜しいのも俺だ。

結局、俺は自分自身に自信が持てないままなんだ。

俺は玉依姫を支える守護者としても、彼女を愛するひとりの男としても、
乗り越えなければならない機会を逃してしまったんじゃないか。

……あの戦いを振り返って、そんなふうに思うことがある。

「お願いよ、凌さん。委員会の仕事をがんばるのは、とても大切なことだってわかっているけれど……。
どうか無理だけはしないで」
「……ありがとう、沙弥」

俺が守護者としての『力』を失ってしまった今では、もう、何もかもが遅すぎるんじゃないか。

……不安だ。

当時も今も、他の守護者に引け目を感じてしまう。
俺は彼らほど有能ではないから。

片時も離れず、彼女の隣にいたいと願われるのは、
彼女の隣にいるのが自分でいいのだろうかという不安から逃れられずにいるためだった。

「…………」

ちらりと彼女の顔を覗き見る。
沙弥は、どこか遠くを見るような眼差しで街並みを眺めていた。
彼女がこんな顔をするのは、大抵、何かに悩んでいるときだ。

俺に、尋ねる資格があるのだろうか?
俺は、彼女の悩みに踏み込めるのだろうか?

何度も声を出そうとしたけれど、結局……。

マンションのエントランスで、彼女と別れるそのときまで、
俺は『また明日』以外の言葉を口にできなかった――。



●Case.7 鬼崎刀真の場合

「…………」

操作しないまま放り出した携帯のデジタル画面が暗くなる。

「…………」

適当にボタンをいじって待機状態に戻してみる。

「…………」

俺には、携帯電話とにらめっこして時間を潰す趣味なんてない。

「うざってえ……」

もう何度目かも覚えていないほど、くだらない動作を繰り返した結果、
自分自身に対する苛立ちは、俺の限界を越えようとしていた。

今、ちょうど夜の10時になったところだ。

普通の女子高生なら絶対にまだ起きているはず……。
いや、あいつはちょっと普通じゃねえから早々に寝てるかもしれねえけど、
10時にかかってくる電話ならまだセーフだろう。
常識の範囲内だ。

「…………」

別に、俺があいつに電話したって問題ないよな?
電話番号知ってるんだから、これは電話してもいいってことだろ?

「…………」

携帯の待ち受け画面を確認する。すでに10時を8分ほど過ぎている。

「……くそっ!」

思わず悪態を吐きながら、俺は電話帳を開き、『藤森沙弥』の項目を選ぶ。
呼び出し音がやけに大きく聞こえる。
部屋に音楽でも流しておけば気が紛れたかもしれない。
事前準備が足りていない自分に対してまた苛立ちが募るが、時すでに遅し、だ。

『もしもし、鬼崎くん?』

電話の相手は正確に俺の名を呼ぶ。
反射的にギクッとしてしまったが、向こうも俺の番号を登録していれば、
誰からの電話かなんて当然わかるはずだった。

「……よお」

『どうかしたの? こんな遅くに……』

……やっぱり夜10時は遅すぎたか?

「いや、今日のおまえ、ちょっとおかしかっただろ」

『え……?』

「授業中も上の空だったじゃねえか。
もし、何かあったんなら……俺でよけりゃ相談に乗ろうと思ってよ」

『…………』

電話口から、あいつのためらう気配が伝わってくる。

『どうして、わかったの?』

「……隣の席だぞ。俺にまで隠せるとか思ってんじゃねえよ」

性格の悪い奴なら『そんなに隣ばかり見ているのか』と、
要らない深読みをしてくるところだろうが……。
決して頭が悪いわけじゃないのに、馬鹿がつくほど素直な女だから、
俺も、こいつ相手なら多少は素直になっちまうらしい。

『……あのね、実は……変な夢を見てしまって……』

「どんな夢だ?」

『……それは……』

ここまで気にしている以上、ただの夢ではないのだろう。
俺は何を聞かされてもいいように覚悟を決めたが――

『明日、学校で、会って話すわ。それでもいい?』

「わかった。じゃあ、明日は早めに行く」

俺は電話を切った。

後半、あいつの声がずいぶん和らいでいたことがうれしかった。
俺と話すことで少しでも不安が消えてくれるなら、
なんつうか、甲斐がある。

今夜は目が冴えちまって、なかなか眠れそうになかった。
……笑えねえ。
遠足が楽しみで仕方ねえガキみたいじゃねえか。

けど……。

あいつと会える明日が待ち遠しいのは、嘘じゃなかった。
                                               Fin


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