――携帯が着信を告げる。

「やめてくださいよー、もう」
心の底から億劫そうな声を出して狐邑怜は嘆いた。
電話をかけてきた相手が戸惑う間に、彼は畳みかける。
「ほんと『昼休みだから』とか関係ないですからー。
学校にいるタイミングでこういう電話受け取りたくないんですよー。
もうちょっと遠慮してくれません?」
ちょうど購買帰りだった狐邑は、教室に戻ることを諦めて中庭に出た。
今は昼休みで、ここにも結構な数の生徒がいる。
しかし、自分が思うほど他人はこちらに興味を持たないものだ。
携帯と喋っている生徒は珍しくないし、万一注目を浴びたらそれはそれまでの話だ。
つまり――。
こんな時間から電話をかけてきた相手が悪い。
「で、何の用ですか?」
携帯のディスプレイに映る人物はこめかみに青筋を立てている。
「はいはい、わかってますって」
次に会うのが怖いなあと思いつつ、狐邑は笑って彼の説教を聞き流した。
「伊勢さんが心配することなんてないですよー?
沙弥先輩はめちゃくちゃいつも通りで変わったとこなんてありません。
俺、最低限の義務は果たしてるつもりなんですけど……」
狐邑は適当なところに腰を下ろし、購買で勝ち取ったばかりのバゲットを取り出す。
生ハムやカマンベールチーズを挟んだ、ちょっと値が張るサンドイッチだ。
幸せな昼休みになるはずだったのになあと狐邑は内心でひとりごちた。
いかつい男の顔を眺めながらの食事ほど嬉しくないものも少ない。
「え? ……『食べながら電話するな』とか言われても。
昼休み逃したら食いっぱぐれちゃうじゃないですか」
がしがしとバゲットにかじりつきながら適当に相槌を打つ。
「訓練は欠席しないようにしますって。
だから、今日のところはこの辺で見逃してくれません?」
強引に話をまとめようとする狐邑に、電話の相手は深いため息をついた。
狐邑は結局、詳しいことは直接会ったときに、と話を切り上げることに成功する。
「やれやれ……」
通話を終えてから携帯を確認すると、相手を宥めすかしている間に2通のメールが届いていた。
片方はクラスメイトからの「今どこにいる?」というメールで、
「……中庭で飯食ってるよ、と」
悩み事してるからひとりにしといて、と適当な絵文字を文末に添えて返信してやる。
狐邑が何か悩んでいるかといえば嘘だが、面倒な電話がやっと終わったというのに、また煩わしい思いをしたくなかった。
もう1通は、隣のクラスの知人から、「体操着貸してくれ」という切実な内容のメールだ。
「うーん……」
貸すか貸さないか逡巡する。
「まあ、いいか」
いつものとこに置いてあるから勝手に持ってっていいよ。
適当な人付き合いを終えて携帯を閉じたとき、ふと視界の端を気になる影が横切った。
「あれ、犬戒先輩?」
ガラス越しに見える人物は紛れもなく3年の犬戒響だった。
狐邑と直接の面識はないが、彼がちょっとした事情で関わっている藤森沙弥の知り合いだ。
以前、彼女が犬戒に絡まれているところを目撃したことがある。
彼の態度は『執拗』という表現がぴったり来るくらいなのだが、沙弥に聞いてみたところ、彼女自身は犬戒がどうして自分に構うのか知らないらしい。
だから、念のため、チェックだけはしているわけだ。
「…………」
犬戒はガラスの向こう、購買横の自販機で飲み物を買っている。
彼が顔を上げたとき、その視線はまっすぐ狐邑に向いていた。
「…………」
狐邑はまっすぐに犬戒を見返す。
彼にとって『気になるので観察してました』という理由は正当なものだ。
やましいところはないのだから、目をそらす必要もない。
数秒後、犬戒は表情ひとつ変えず歩き出した。
この位置からだと彼がどこへ向かうのかは見えない。
「あれが変な人だってのは間違いなさそうかな。けど……」
犬戒が買ったのは紙パックのブラックコーヒーだった。
今までは『学生らしからぬ冷徹な空気をまとった人物』という印象だったが、そこだけ妙に学生らしいというか、隙のあるような気がして面白い。
なんだかおかしくて狐邑が笑っていると、今度は女の子の小さい悲鳴が聞こえてくる。
「す、すみません! 大丈夫ですか?」
そちらを向いてみると、真摯に謝る男子の姿が目に入った。
女の子はよく余所見をするし、楽しいことがあれば肩を揺らして笑うし、ちょっとしたことでも悲鳴を上げる。
狐邑はそういうものだと思っている。
それが悪いなんて少しも考えない。
だから、別に彼の側に非があったわけでもなく、女生徒が転んだわけでもなく、ただ少し肩がぶつかった程度のよくある出来事だったんだろうと判断する。
そこに特異な点があるのだとすれば――。
「……本当にすみませんでした。怪我がなくてよかった」
安堵した様子で微笑む男が真面目すぎるところか。
彼は、中性的な印象を与えるほど整った顔をしていた。
気遣われていた女生徒のほうは哀れなくらい緊張している。
「あれは、えーと……」
遠目に観察しながら、狐邑は少し首を傾げた。
「鴉取駿、だったかな」
狐邑は、人の顔や名前を覚えるのが得意なほうだ。
つい最近この学校に転入してきた2年生で、なかなか目立つ風貌であるため、鴉取の名は記憶していた。
任務に役立ちそうな特技など、彼にとっては、あまり喜ばしくもないのだが。
狐邑は、温室のほうへ向かう鴉取の背をぼんやりと見送った。
「悪くないんですけどね、『ここ』も……」
もう半分近くなったバゲットをかじりながら狐邑は呟く。
悪くないが満たされもしない。自分の中は空っぽのままだ。
どうにも、『ここ』は窮屈すぎる。
国立緑尾学園高等学校は生徒の自主性を重んじる校風だ。
所持品検査なんてありえないし、制服を着崩すのも個人の自由だ。
この高校が暮らしにくい環境だとは思わない。
ただ、この寒名の街、すべてが。
「……生きにくいだけなんですよね……」
鳴らない携帯を見つめながら、狐邑はかけられた重圧に嘆息する。
自分を縛りつけるものが崩れ去る日など来るのだろうか。
意味もなく空を見上げ、屋上にいるだろう少女のことを考える。
自分が事態の鍵を握ることすら知らず、暢気に昼ごはんを食べているのだろう。
狐邑は、それもまた、とても不幸なことだと思う。