意識が浮上すると共に、俺は神無の存在を探した。
無意識にも近いその行動は、習慣といっていいだろう。
いつもなら手を伸ばした先に、抱き心地のいい彼女がいるはずだ。
しかし、どんなに手を伸ばしても、その指先は彼女にたどり着く様子はなかった。

隣に、いない……?

その疑問を解消するため、重い瞼をこじ開ける。
窓から差し込む日差しに、何度か目を瞬かせると、視界がはっきりとしてくる。

「いない……」

やはり、そこに神無の姿はない。
再度、目を閉じで思考を働かせる。

もう朝食を作っているのだろうか?
それとも、どこかに出かけているのか?

そこまで考えて、俺は大切なことを思い出した。
神無はもえぎと月に一度開催される朝市に出かけているのだ。
昨日、その話を聞いた記憶はあったが、眠気に押されて忘れてしまっていた。

朝から陰鬱な気分になりながらも、体を揺り起こす。
そのままベッドから出ると、重い足取りでダイニングキッチンへと向かった。

 * * *

ダイニングキッチンの扉を開け、そのままキッチンへと向かうつもりだった。
しかし、テーブルに皿がいくつか置いてあることに気付き、
方向転換してテーブルへと向かう。

「……何だ?」

皿の下にメモ用紙が挟まれているのを見つけ、紙を摘み上げる。

「【朝ご飯です。食べてください】」

筆跡を見て、すぐに神無が書いたものだとわかった。

陰鬱な気分が消え去ったわけではないが、
神無の作った朝食と書置きを見て、ほんの少しだけ気分が浮上する。

「…………」

少し冷えたその朝食を温めなおし、俺は1人だけのテーブルについた。

 * * *

物音ひとつしない静かな空間に、食器の立てる音だけが響く。

「…………」

ご飯はふっくらと炊き上げてあり、おかずも申し分なく美味い。
それなのに……どこか、味気なさを覚える。

「……?」

何度も咀嚼し、味わって食べているのに、大事なものが欠けている気がする。
俺は途方に暮れて、皿に目を落とす。

そこに、欠けた何かがあるはずもなく、
結局朝食をすべてを平らげた後も、味気なく感じる原因はわからなかった。

 * * *

食べ終わった皿を片付け終わると、ダイニングに戻ってくる。
もう一度椅子に腰掛け、深いため息をついた。

「ふう……」

時計を見れば、針は12時を指そうとしていた。

「……遅いな」

朝市だけなら、とっくに帰ってきてもおかしくない。
それなのに、なぜ神無はまだ帰ってこない……?
そこで端と、朝の話に続きがあったことを思い出す。

「そういえば、朝市を見た後は、
 昼食を食べてくると言っていたな……」

女同士でしか話せないこともあるともえぎに言われ、
神無ももえぎと街に降りることを望んでいたため、
しぶしぶ承諾したのだった。

「……やはり朝市だけ許可すれば良かったか」

そうすれば、こんなモヤモヤとした感情を抱かないで済んだかもしれない。
いや、神無はもえぎと出かけるのを喜んでいた。
……俺は、神無の顔を曇らせたくはない。

「はあ……」

本日何度目かの深いため息を零し、窓の外に視線を移す。

今頃……神無ともえぎは昼食を食べている頃だろうか。
ここからでは、神無たちの様子を知る術はない。
だから、多分こうしているだろうなと、想像を働かせるだけだ。

「洋服屋に行くとも言っていたな……」

では、洋服屋で服を選んでいる最中かもしれない。
それとも、もう買い物は終えて、喫茶店でお茶をしているのかもしれない。

「…………」

ちらっと時計を見ると、俺が思案に耽ってから30分と経っていない。
ゆうに数時間は経過していたと思っていただけに、落胆が隠せなかった。

「神無がいるといないとでは、時の流れがぜんぜん違う」

神無が傍にいれば時はあっという間に過ぎていくのに、
傍にいない時間は永遠にも等しい。

「……神無。早く帰ってこい」

俺は祈るような気持ちで、呟いた。

 * * *

……

…………

飽きもせず窓の外を眺めていると――。

「神無……!」

もえぎの真っ赤なスポーツカーが目に飛び込んできた。

ダイニングキッチンを飛び出し、廊下を駆け、
エレベーターのボタンを押す。

「ちっ」

なかなか上ってこないエレベーターに舌打ちをする。
神無がすぐそこまできているのに、会えない。
もどかしさがだけが募っていく。

「まだこないのか」

エレベーターではなく階段を使おうと背を向けた瞬間、
チーンという軽快な音と共に、エレベーターの扉が開く。

俺は一も二もなく乗り込むと、1階のボタンを押した。

 * * *

扉が開いた瞬間、俺は神無のもとへ一直線に駆け寄る。

「神無……!」

「え? か、華鬼?」

神無の戸惑った声が聞こえたが、構っていられない。
とにかく神無の存在を確かめたくて、強く強く抱きしめる。

「神無……、神無……」

ほんの数時間会えなかっただけなのに、
胸が締め付けられるほど苦しかった。
今はその苦しみから解放されたように幸せが溢れてくる。

「神無さん、先に行ってますね」

「は、はい。今日はありがとうございました」

もえぎが立ち去る気配を感じたが、俺は構わずに神無を抱きしめ続けた。

「神無……」

ようやく、わかった。
俺が朝食を味気なく感じた理由――。
それは、神無が傍にいなかったからだ。

どんなに美味しい料理でも、神無がいなければ美味しくない。
神無こそが、最大のスパイスなんだ。

「……華鬼、ただいま」

すべてを包む込むような優しい声音が、耳朶を打つ。
顔を上げると、神無と目が合った。

「お帰り、神無」

会えなかった数時間分の思いを込めて、愛しい花嫁の名を呼んだ――。

END

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