※このSSにはゲーム本編のネタバレが含まれます。プレイしてからお楽しみください。

※このSSはパラレルな時間軸で展開しております。
ゲーム本編との直接的関係はなく、本編の雰囲気とは異なります。ご了承ください。


【こわれた(せかいの)ひとたちのものがたり】


――コンコン、と。
静かな室内に硬質の扉を叩く音が響いて、ぼんやりと窓の外を眺めていた撫子は我に返った。
扉を開けてみれば、顔を覗かせたのは【キング】と呼ばれる、撫子をここに閉じ込めている張本人だ。

「今、いいかな」
「……ええ、どうぞ」

室内に導くように身体を脇に寄せると、彼は嬉しそうに微笑みながら足を踏み入れる。
心なしかいつもより楽しそうなその様子に、撫子はひとり首を傾げた。

「実は、君に渡したいものがあって」
「渡したいもの?」
「うん。これなんだけど……」

差し出されたのは、透明の綺麗なガラス瓶。中には乾燥した小さな花や葉が入っている。

「……ハーブティー?」
「正解。ルークから、君が最近よく眠れないみたいだって聞いたから」
「え? ……ああ、そういえばそんな話をしたかもしれないわ」

(睡眠不足なんて、べつに今に始まったことじゃないけど)

元の世界にいたときも、毎晩見る夢のせいで眠った心地がしなかったし、こちらに来てからは安眠などできるはずがなかった。
軟禁されていると言ってもいいこの状況下で熟睡できるほど、撫子の神経は図太くはない。

「睡眠不足が続くと身体に良くないし。かといって、薬に頼るのも健康的じゃないから安眠効果のあるハーブティーなんてどうかなって」
「そう、なの……。ありがとう」

その、『睡眠不足』の元凶とも言える人物に微笑まれ、複雑な気持ちになりながら撫子はちいさく笑みを返した。
試しに飲んでみてほしいとの朗らかな声に、こんな昼間から安眠効果を得ても逆に困ってしまうと思いつつも、水を差すこともできず彼がお茶を淹れるのを見守った。
ティーポットにハーブを入れてお湯を注ぐと、どこか安心する心地よい香りがふわりと広がる。

(……確かに、よく効きそう)

室内を満たす優しい香りに目を閉じた撫子は、けれども次の瞬間、彼が口にした言葉にぴしりと固まることになる。

「リラックス効果のあるカモミールをメインにブレンドしてみたんだ」
「……え」
「ヨーロッパでは、寝る前に飲むお茶としてメジャーみたいだね。あ、はちみつ入れる? 俺としてはミルクティーにするのがお勧めだけど、どっちがいいかな」
「ちょ、ちょっと待って。今、ブレンドしてみたって言わかなかった? それ……もしかして、あなたが作ったの?」
「そうだよ。温室で育てたハーブでね。花以外にも色々育ててるんだ。この前はあまり詳しく案内できなかったから、また今度改めて招待するよ」

(自分で作った、って……)

ゆらゆらと柔らかい湯気をたてるハーブティーを前に、撫子は自分の血の気が引いていくのが分かった。
お世辞にも、彼は料理の腕が良いとは言えない。はっきり言って壊滅的だ。
ハーブをブレンドするという行為は料理には含まれるのだろうか。セーフなのかアウトなのか。基準がわからない。なんにせよ彼が作ったものを口にするというのはかなり勇気が必要だった。

「どうしたの? 冷めないうちにどうぞ」
「……ええ」

差し出されたカップを受け取って、数秒、見つめる。

(……香りはすごくいいけど)

何しろ、【彼】が作ったものだ。幾度となく、調理場を爆破させてきた【彼】が。

「撫子?」
「ご、ごめんなさい。……いただくわ」

せっかく淹れてくれたものを無下にするのは心苦しい。覚悟を決めて恐る恐る口にしてみる、と――。

「……おいしい」

破滅的な味を想像していたが、それは意外にもおいしかった。

「本当? ……よかった。実は、少しルークに手伝ってもらったんだ。料理と違って、薬品の調合みたいなものだから自信はあったんだけど、それでもやっぱり君に飲んでもらうものだから詳しい人に聞いた方がいいかなって思って」
「なるほどね。それなら納得だわ」

彼がひとりで作ったのでなければ、問題はないだろう。……たぶん。
そもそも彼が言ったように薬の調合のようなものであるのならば、得意分野なのだろうし不安はない。
――ハーブの効能か、意外な美味しさに警戒が解けたからか。すっかり安心して、撫子はカップに口をつけるとほっと息をついた。温かいお茶と柔らかな香りが、身体に染みていく。

「……ふあ」

ぽかぽかと芯まで温まる心地よさに、目を閉じてしまいそうになるのを必死で抑えた。

(昨夜もちゃんと眠らなかったせいね。いけないわ……)

部屋に人を招いたまま居眠りをするわけにはいかないと、眠気を覚まそうと目を瞬き――ふと視線を感じて、顔をあげた。

「……?」
「…………」

テーブルを挟んだ向かい側で、うとうとする撫子をじっと彼が見つめている。
こうして見つめられるのは今に始まったことではない。
だが、ふたりきりで向かい合っていると居心地の悪さを感じて、撫子はまだぼんやりと眠気の残る頭を必死に巡らせながら口を開いた。

「ご、ごめんなさい。うとうとしてしまって……。その、これすごく効くみたいだわ。ありがとう」
「…………撫子」
「……なに?」
「……好きだよ」
「……………………はい?」

何の脈絡もなく告げられた言葉に、先ほどまであった眠気が一気に吹き飛んだ。
これも今に始まったことではなくいつものことだけれど、それにしても唐突過ぎる。

(意味が分からないわ。……いえ、意味は分かるけれど……って、そうじゃなくて)

「君のことが好きすぎて……どうしよう、撫子。今夜は俺のほうが眠れないかもしれない」
「ちょ、ちょっと……?」
「一晩中、君のことばかり考えてしまいそうだ。……ねえ、撫子。今夜は一緒にいてくれないかな」

するり、と。いつの間にか傍に来ていたキングの指が撫子の長い黒髪を絡める。

「…………っ」

思わず、席を立っていた。
逃げるように彼から離れたけれど、狭い室内ではすぐに追いつかれてしまって、硬い壁を背に撫子はあっという間に逃げ場を失う。
右も左も、逃げ道はキングの腕で奪われ――気がつけば、彼の腕に囲われるようになっていた。

「……どうしたの? なんだか、変よ」
「変? そんなことないよ。……あ、でも君の言う通りかも。撫子……君のことになると、俺はいつもの俺じゃいられなくなるんだ」

好きだ、とか君のことばかり考えている、とか。彼がいつも言っている言葉ではあるけれど――これは違う。
普段であれば、撫子がわかりやすく困って見せればそれ以上に追いかけて来ることなどない。強引で勝手な癖に、撫子の反応には鋭いのだ。

「撫子……好きだよ」

耳に吐息がかかるほど近くで囁かれ、撫子の体温は急上昇する。目の前には、熱を帯びた瞳。それが、少しずつ近づいて。

「……!」

突き飛ばそうか大声を出そうか、いや、でも。
焦る思考に、思わず目を瞑りそうになった時――。

「あー、キング。やっぱりここだったんですねー」

部屋の扉が開く音と、なんとも間延びした声が聞こえてきた。

「おっ!? なんだよ、真っ昼間っからラブシーンか?」

次いで、目に入った姿に撫子は安堵の息を漏らす。扉の向こうに立っていたのは、白衣を着て手にカエルのぬいぐるみをつけた青年。

「……丁度よかったわ。お願い、助けて」
「おやおや……なんだか、大変なことになってるみたいですねー?」
「呑気なこと言ってないで、どうにかしてくれない……?」
「どうにか、と言われましてもねー」
「ルーク、何の用かな? 今、忙しいんだけど」
「実は、あなたがブレンドしたハーブティーにちょっとした手違いがありましてー」
「手違い?」
「ああ、手違いと言っても、飲んだら健康に害があるとかじゃないですよー。撫子くんの身に危険が及ぶことは……ない、とは言えないかもしれませんが」
「大アリじゃねーか。まさにイマ、及んでんだろ」
「そうみたいですねー」
「? どういうことなの? ……と言うか、さっきから何の話をしてるのかよく分からないんだけど」
「ああ、すみませんー。まあ、色々説明省いて結論だけ言いますが、キングがブレンドしたハーブティーなんですけど、いわゆる【惚れ薬】ってやつができちゃったみたいなんですー」
「……は?」
「飲むと分泌フェロモンの変化により、周囲の人間の感情を一時的に高揚させるという……まあ、つまりー。あなたに近づいた人が恋愛感情を抱いてしまうとか、そんな感じですー。あ、キングの場合は元々あなたのことが好きなので、それが増幅されていつもより自重しないだけですけどー」
「惚れ薬……って、そんな映画や小説じゃあるまいし」
「まがいものでも、理論上は有り得なくないですよー?」

よりにもよって【惚れ薬】とは。有り得ない。そう思いながらも、この組織であれば作ってしまうことも可能かもしれないと、撫子は頭の片隅で諦めに近い感情を抱いた。
――しかし、同時にひとつの疑問が脳を掠める。それならば、目の前のルークは何故平静を保っていられるのか。

「ルーク、悪いけど俺と彼女の時間を邪魔しないでくれるかな」
「あー、はいはいー。すみませんでしたー」
「待って。素直に出て行こうとしないで。せめてこの状況をどうにかして」
「そう言われましてもー。上司の命令には逆らえませんしー。……ねえ、カエルくん?」
「そこでオレ様に話振んなよ。ま、コイツらに常識求めても仕方ねーからな。運が悪かったと思って諦めろー」
「あのね……」
「あなたたち、なにしてるんですか」

再び扉の開く音がして、真っ白な毛皮が視界の端に映る。入口へと視線を向ければ、細い目を更に細めて呆れたように撫子たちを見据えているビショップが立っていた。

「おやおやー、ビショップじゃないですかー」
「ビショップ……。君も、俺と彼女の邪魔をしに来たの?」
「一体何の話です? っていうか、どういう状況なんですか、これ」
「……そんなの私が聞きたいくらいよ」
「あー、はいはいー。そのあたりはボクから説明しますー。実はですねー……」


*   *   *


「――と、いうわけでして。まあ、持続性のあるものではないのでそのうち元に戻るとは思いますけどねー」

そうして、かいつまんでではあるがルークによって事の経緯と説明を受けたビショップは、困惑にますます眉根を寄せることになった。

「……なるほど。それで、いつも以上に面倒なことになってるんですか、あのひと」
「まあ、そうですねー。薬の効果があろうとなかろうとキングはいつもあんな感じですけど、それにしたって普段はもう少しマシですからー」
「ルーク、ビショップ。話は終わった? もういいかな。彼女とふたりきりになりたいんだ」

キングといえば、相変わらず撫子の傍から離れようとしない。いっそため息をつくことすら馬鹿馬鹿しくなって、撫子は諦めたようにベッドに腰掛けていた。
ビショップはキングと撫子を一瞥すると、彼女の代わりとばかりに、わざとらしいため息をつく。

「キングがあなたにどれだけ迫ろうがなんだろうが、ぼくには関係のないことなのでどーでもいいんですが。さすがに仮にも一国の王様が頭に花咲かせて仕事を放りだしてたら色々困るんですよね。毎度のことすぎていい加減面倒になってきましたけど、キング、あなた待ちのセカンドたちが頭を抱えています」
「それは、俺がいないとどうしても駄目なことかな」
「どーにもなりませんね。あなたじゃないと手に負えない案件ですから。いーから、さっさと行ってください。一分一秒を争います」

ビショップは、いつまでもその場を動こうとしないキングに業を煮やしたのか、近づいて来てべりっと撫子から引きはがした。そして、そのままキングの背中を押し、部屋から追い出そうとする。いささか強引であるその行動を、彼らしくないと僅かに違和感を覚えながらも、撫子はほっと息をつく。
それから、何度か名残惜しそうに振り返りながらも、キングは部屋を出て仕事へと向かって行った。

「それじゃ、ぼくも仕事に戻ります。撫子さん、あなたは厄介なのでその薬とやらの効果が切れるまで部屋から一歩も出ないでおとなしくしててください。ふらふらされると迷惑ですから」
「……そんなこと、あなたに言われなくたって分かってるわ」
「ああ、ビショップ。待ってくださいー」
「なんですか、先輩」
「確か今日は君、東地区の偵察に出かけるんでしたよね。危険はなさそうな場所ですし、外出するならついでに彼女も連れてってもらえませんかー?」
「「……は?」」

ビショップと撫子は同時に声を合わせ、そして互いを見やる。この状況で、ルークは一体何を言っているのだろうか。

(こんな薬の効果が外で発揮されちゃったら……大変なことになるじゃない)

「嫌ですよ。なに言ってるんですか、キングの許可ナシにそんなことしたらぼくが叱られます」
「大丈夫ですよー。その辺の責任は、ボクが取るんでー」
「ちょ、ちょっと待ってよ。あなた、さっき言ってたわよね。薬を飲んだせいで、周囲の人間に一時的にでも恋愛感情?をもたれるって……。そんな状況で外出なんてしたら、大変なことになるんじゃないの?」
「ああ、そういえば説明が抜けてましたねー。そのあたりは問題ありませんー。惚れ薬と言っても、万能ではないですから。元々あなたに多少なりとも好意を持っていた人間にしか効果は出ないようになってるんですー」
「……ええ?」
「ま、結局は化学的な論理に基づいた薬品なので、人間の根底感情を変化させられるワケではないんですよ。もともとあったもの――それこそ深層心理であっても、ですが――それを増長させるってだけですからねー」

それは、なんとも都合よくできた薬だ。

(ああ、だから……)

だからルークやビショップには薬が効かず平静なのか、と。ルークから説明を受けた時に一瞬だけ浮かんだ疑問が解消された。

「なので、外出しても誰彼かまわず恋愛感情を抱かれて、取り囲まれるようなことはありませんから大丈夫ですよー。それよりも、ここにいるとキングがセカンドたちの目を盗んで、またあなたに会いに来そうですから」
「それは……」
「そんなわけなので、よろしくお願いします。ビショップ。クイーンをきちんとエスコートしてくださいねー」

先輩からの命令は絶対、と言外に匂わせる笑顔でルークに見送られ、ビショップは撫子を伴い部屋を出て行くことになった。
――ビショップもルークの提案に一理あると踏んだらしい。彼の仕事への真面目さには、さすがに感嘆したくなる。



「……オイ、『多少なりとも好意を持っている人間』に効果が出るっつーなら、ビショップと一緒に行かせたらマズイんじゃねーの?」
「そうかもしれませんねー」
「オマエ、わざとだろ。ったく、有心会のヤツらにでも会っちまったらどーすんだよ。余計に面倒なことになるだろー」
「ああ、そうですねー。でも、さすがにそこまでタイミングよく会ったりはしないでしょー」
「……けっ。呑気なヤツ」


*   *   *

「……まったく、惚れ薬だかなんだか知りませんけど本当に迷惑です」

偵察という名目で、ビショップと数人の護衛と共に街を歩いて早数十分。一歩一歩と進むごとに、隣のビショップの機嫌は悪くなっていた。
そもそも、それほど彼が不機嫌になる理由が撫子には分からない。確かにルークに押し付けられるように仕事に同行させられ、不満に思う気持ちはあるのだろうけれど、それでも。

「私に言われても困るわ。それに、迷惑しているのはこっちの方よ」
「そうですか? キングに迫られていたときのあなた、まんざらでもなさそうでしたけど」
「そんなわけないでしょう」
「……どうだか。優しい声音で愛の言葉を囁き続けられれば、悪い気はしないでしょ」
「あの人は、私を閉じ込めているのよ。そんな人に簡単にほだされたりしないわ」
「ストックホルム症候群みたいな例もありますからね。あなた、キングに同情的じゃないですか。なんだかんだあのひとに甘いですし」
「だから…………っ。………………はあ」

口にしかけた言葉を、そのまま飲み込む。短い期間ながら彼の性格を知っていた撫子は、こうなってしまえば何を言っても無駄であろうことがわかっていた。

(頭、痛い)

周囲に勝手に巻き込まれて、自分のせいではなくても文句を言われて。いつものことだけれど、いつも以上に面倒な事態に言葉の代わりに口から出たのは深いため息だった。
いっそ口を開くのも嫌になって、撫子は黙り込む。――と、急に、前を歩いていたビショップが足を止めた。突然のことに、撫子はそのまま彼の背中に思い切りぶつかる。

「った……。ちょっと、突然止まらないでよ」
「何も言わないってことは、やっぱり図星なんですか」
「え…………?」

唐突にすぐ傍で顔を覗きこまれて。不穏な空気にじりじりと後ずさりをするけれど、下がった歩幅の分だけビショップは追い詰めてきた。
さらには腕を掴まれ、そのまま引き寄せられて彼の腕の中にすっぽりと囚われてしまう。もこもこの毛皮が、撫子の頬をくすぐった。

「ちょ、ちょっと……!?」
「キングのことですよ。やっぱりほだされたんじゃないですか」
「だから、違うって言ってるでしょう」

逃げようともがいても、力をこめられてしまって抜け出すことができない。
なんだか、様子がおかしい。普段の意地悪にしては度を越している。むしろビショップはこういった近づき方を嫌がりそうなものなのに。周囲では、護衛としてついてきたアワーたちが視線のやり場に困って不自然に目を逸らしていた。

「あなた、なんだか変よ……? どうしたの?」
「変? ……どうでしょうね。あの薬の効果かもしれませんよ」
「は? 何言ってるのよ。そんなはずないわ……だってあれは、」

『惚れ薬と言っても、万能ではないですから。元々あなたに多少なりとも好意を持っていた人間にしか効果は出ないようになってるんですー』

確かにルークはそう言っていた。それならば、今のこの状況はなんなのか。

(いつものように、からかっているだけ? それとも薬のせい? ……でも、この人が私に好意的だなんて考えられないわ)

いつも顔を合わせれば憎まれ口の応酬ばかりなのに。本気で憎まれているわけではないとは思うけれど、それでも好意を寄せられているとは到底考えられない。
――好意。そう、ルークは言っていたけれど、好意だけでない可能性もあるのではないだろうか。たとえば……嫌いという感情が、さらに増幅させられることも、あるのかもしれない。

(それだったら、意地悪が度が越したというのも理解できる……けど)

「自分を閉じ込めている人間に、簡単にほだされたりしないって言いましたよね。なら、どうして突き放さないんです?」
「それは……」
「やっぱり、あなたキングのことが好きなんですよ」
「だから、違うって言ってるじゃない。勝手に決め付けないで!」
「――へえ。往来で痴話喧嘩とは、ずいぶん良いご身分じゃねえか」

(え……?)

からかうような、けれど明らかな敵意を含んだ声に振り返ると、そこには赤い髪をした見憶えのある青年がいた。

「おや……。有心会の若頭さん、ですか」
「まさか、ンなとこであんたらに会うとは思ってなかったな」
「うむ。ないすたいみんぐというやつか。まさか逢い引きの最中に出くわすとは」
「それはタイミングが良いのか……?」

若の後ろから、これまた見覚えのある青年がふたり顔を現す。マントを纏った男と、重そうな本を抱えた男。彼らもまた、有心会の人間だ。
更にその後ろには、数人のガラの悪そうな男たちが武器を持ってこちらを睨んでいた。

「……今日は、戦う予定はなかったんですけどね」
「そりゃ、こっちのセリフだ。ただの偵察のつもりだったが、とんだ収穫だな。……お嬢を渡してもらうぜ」

じり、と砂を踏んでこちらとの距離を測る若に、ビショップは撫子を庇うように立つ。一瞬で、その場の全員に緊張が走る。

(ちょ、ちょっと。どうなっちゃうの……!?)

「反政府組織がぼくの前に堂々と姿を現すなんて、いい度胸ですね。いつもはこそこそしてるじゃないですか」
「まあな。……だが、人数はオレらの方が上だ。状況から見てこっちの方が有利だと思うぜ」
「数が多けりゃいいってもんじゃないでしょ。……撫子さん。怪我したくなかったら、おとなしくしていてください。ぼくから離れたら容赦しませんよ」
「え、ええ……」

――若が地面を蹴ったのを合図に、戦いは始まった。

「……っ、おい、お前ら! 隙を見てお嬢を奪え。いいな」
「了解です、若!」
「なに言ってるんですか。そんな隙、与えませんよ」
「どうだかな。いくらあんたでも、この状況でお嬢を庇いながら戦うっつーのはキツいんじゃねえの?」
「そうでもありませんよ。以前、あなたと戦った時も余裕でしたし。あの時と似たような状況でしょう」
「……チッ。本当にムカつく野郎だな」

顔色ひとつ変えずに若の攻撃を避けるビショップだが、やはり撫子を庇いながらでは戦いづらいのか、動きにいつものようなキレは見られない。
撫子はきゅっと唇を噛み締めた。せめて自分で自分の身を守る方法はないものか。足を引っ張るだけではいたくない。

「……撫子さん。あなた今、余計なこと考えてるでしょう」
「え」
「却って面倒ですから、そのままおとなしくしててください。あなたはただ、ぼくに守られていればいーんです」
「わ、わかったわ」

それでも、何もできずにいる自分が悔しかったけれど、彼の言う通り何かすれば却って足をひっぱることになるかもしれない。
そう思って、引き寄せる力強い腕にそのまま身を任せた。

「……へえ」
「なんですか。何か言いたそうですね」
「キングの恋人を守るにしちゃ、ずいぶん感情が入ってると思ってな。……ひょっとして、王様の恋人に横恋慕か」

その言葉に反応するように、一瞬、ビショップの攻撃の手が緩む。

「……このひとはキングの恋人じゃありませんよ。あのひとが勝手に想いを寄せてるだけです」
「あっそ。まあ、オレらにとっちゃあんたらの弱みになるってだけでじゅうぶんだからな。お嬢が誰のモンかなんて、どうでもいいが」

僅かなその隙を、若は見逃さなかった。

「きゃ……っ」
「……っ、撫子さん!」

ほんの一瞬の隙をついて、撫子の腕を掴みビショップから引き剥がすように奪う。
あっという間に、若の腕に囚われてしまった。痛いほどに強く拘束されて、身動きが取れない。

「さて、と。お嬢、オレらと一緒に来てもらうぜ?」
「ちょっと、離してよ!」
「簡単に渡すわけないでしょう。返してもらいますよ」
「それこそ折角捕まえた人質、簡単に手放すわけねえだろ。せいぜいキングによろしく言――っ」

そのまま、撫子を連れて踵を返そうとした若の動きが、突然固まった。

「……?」

どうしたのかと顔を覗きこめば、射抜くような視線にぶつかる。腕を掴むその力が、強くなった。
突如落ちた数秒間の沈黙に、なんとなく嫌な予感がして撫子は逃げようと身じろぎする。
けれど腕の力は逃さないと言わんばかりにますます強くなり、息ができないほどに抱きしめられた。そうして耳元で囁くように、若が呟く。

「……お嬢、オレのモンになれよ」
「………………は?」
「あんたをキングになんか渡したりしねえ。キングだけじゃない、他の誰にもだ。だから、オレを選べ」
「ちょ……っ、と待って。急にどうしたの!?」
「どうした、って。べつにどうもしねえよ。オレはただ、あんたが欲しいだけだ」

思い当たる節は、ひとつしかないけれど。混乱しそうになる頭の中で、ルークの言葉をもう一度思い出す。

『元々あなたに多少なりとも好意を持っていた人間にしか効果は――』

そう、薬は多少なりとも撫子に対して【好意】を持っていた人間にしか効果はないはずなのだ。

(だったら、若に効くはずなんてないわ。でも、)

もうひとり、効くはずがなかったのに効いてしまった人物へと視線を向ける。そう、先ほども考えたことだ。ルークの言葉通りに【好意】だけではなく、何かしらの感情が【変化】を見せる可能性は――?
若の足を止めるようにして立ったビショップは、撫子を奪い返そうと再び攻撃をしかけてきた。今度は、若が撫子を庇いながらビショップに応戦する。

「彼女が嫌がってるのが分からないんですか。その手を離してください」
「……はっ。あんた、王様がどうとか関係ねえんだろ。お嬢が欲しいなら欲しいって、そう言えよ」
「………………。そうですね。彼女は誰にも渡しません。キングにも、もちろんあなたにも」

再び、撫子を巡っての男同士の戦いが始まった。先ほどとは、別の意味を持って。


*   *   *


「あの、キング……先日の西地区の植林の件なのですが」
「うん……」
「……キング?」
「…………」
「……いつにも増してヒデーな、アイツ」
「あー……想像以上に使いものにならないみたいですねー」
「ナニ他人事みたいに言ってんだよ。オメーのせいだろ、オイ」
「え、なんのことかなーカエルくん」
「とぼけんじゃねー。キングがハーブ混ぜてるとき、妙なもん入れてんの見てたぜ」
「あはは、見られてましたかー。こないだ文献漁ってたら古来の――いわゆる【惚れ薬】のレシピを見つけてね。効果があるとは思わなかったけど、なんでも試してみるものだよ」
「っつーかどーすんだ、ゼッタイ外でビショップも面倒なことになってんぞ?」
「そうですねー。彼も、少なからず彼女に好意を持っているようだから。【好意】の種類にも色々あるけど、ね。まー、あとは本人は自覚が――」
「……っ失礼します! キング、大変です。ビショップと共に東地区に偵察に行ったアワーより、有心会から攻撃を受けているとの報告を受けました。キングの御客人もご一緒のようです」
「な……っ、どうして撫子が……?」
「おや、まー。ビショップもクジ運が良いというか、なんというか」
「至急、アワーを送って。現場にいる有心会の構成員の2倍――いや、4倍増員するんだ」
「はっ」
「……俺も、現場に向かうよ」
「えっ!? しかし、それは……! あ、お待ちください、キング……っ!」
「…………おやおや、王様自ら行っちゃいましたねー」
「呑気に見送ってんじゃねーよ。オメーも行ってこい」
「うーん、あんまり気は進まないんだけどねえ、戦いに巻き込まれたら困るじゃないですかー、ボク弱いし」
「ケッ、何言ってやがる。元凶だろーが」
「やれやれ、カエルくんはうるさいなー。……仕方ない、キングと共に我らがクイーンを救いに行くとしましょうか」


*   *   *


「いい加減、諦めたらどうです? あなたみたいな野蛮なひと、彼女が選ぶはずないでしょう」
「そんなん、あんたが決めることじゃねえだろ」

相変わらず目の前で繰り広げられているふたりの戦いに、撫子はいっそ現実から目を逸らしたくなった。
薬のせいとはいえ、大の男がふたり自分を奪い合って戦っている、なんて漫画のようなシチュエーション。喜ぶ者もいるかもしれないが、残念なことに撫子はそんな思考を持ち合わせていなかった。
そもそも長い付き合いでなくとも、わかる。天地がひっくり返ってもこのふたりが任務や仕事を忘れてこんなことで熱くなるなど、到底有り得ない。……はずだ。

(どうするのよ、これ……。特定の人にしか効果はないんじゃなかったの?)

「――撫子、無事か!?」
「え、あ……」

話の中心であるはずの撫子を放置して、一触即発の戦闘を繰り広げる彼らに頭を抱えていた彼女の元に駆け寄ってきたのは、先ほどまでアワーと戦っていたマントの男――放浪者だった。

「怪我は……ないようだな。よかった。ここにいたら、あいつらの戦いに巻き込まれる。今のうちに行くぞ」
「行くって、どこへ?」
「政府の目が届かないところだ。一度、有心会に戻ったほうがいいかもしれないが……」
「有心会? だ、だめよ。私、行けないわ」
「……確かに有心会も乱暴な奴が多いし、絶対の安全の場所とは言えない。だが、政府にいても同じだろう。何されるかわからないんだぞ。お前、いきなり連れて来られて閉じ込められたんだろ?」
「……たしかに、そうだけど。でも……」

有心会に連れて行くと言われて、素直に頷くわけにはいかない。彼らにとって、撫子はあくまでも【政府に対する人質】でしかないのだ。
しかしながら、当然有心会よりも【安全】とはいえ、精神的に追い込まれる政府に囚われている現状に納得しているわけでもない。

「大丈夫だ。あいつらの手前もあるし、一時的に有心会へ向かいはするが……お前のことは、必ず元の世界に戻してやる。……撫子、一緒に行こう」

手を差し出されて、その仕草に既視感を覚える。撫子は言葉に出来ない安心感に誘われるように、手を伸ばした。

「――待てよ。てめぇ……お嬢をどこに連れて行く気だ」

びくり、と。割って入った低い声に、撫子の肩が震える。彼女を庇うように、長いマントがばさりと翻った。

「……安心しろ。有心会にはちゃんと戻る。こいつのことを利用させるわけにはいかないが、有心会に匿うのが今は安全だからな」
「勝手なことをされては困りますね。まだ勝負はついていないんです」
「ああ。それとも、お前も参戦か? お嬢病のお前なら、この戦い譲れねーよなあ?」
「な……っ、おい。ビショップはともかく、オレとお前は一応仲間だろう!?」
「女取り合うのに、仲間とかそんなん関係ねえだろ」
「だから待て、攻撃するな……っ。話を聞け! というかお前、なにかおかしいぞ!? 一にもニにも組織の意向最優先の若頭はどこにいったんだ」
「お嬢、あんたは向こう行ってろ。うっかりその顔に傷なんてつけたくねえからな」
「おとなしく待っててください。すぐに、迎えに行きますから」
「おい、やめ……っ」

ビショップと若に睨まれたマントの男は、彼らによって呆気なく殴り倒されてしまう。膝をついてその場に崩れ落ちる彼の元へ、撫子は慌てて駆け寄った。

「大丈夫……!?」
「……っ。……オレは大丈夫だ」
「本当に? ……結構容赦なくやられてたみたいだけど」

立ち上がろうとする姿に、手を差し伸べる。彼は撫子をしばらく見つめた後、差しのべられた撫子の手に自分の手を重ねた。
――そして、そのまま祈るように縋るようにぎゅっと握って、何故だかとても切なそうに顔を歪めた。その様子に、なんとなく嫌な予感がする。

「撫子……。もう、この手を離さないから。だから、どこにも行くな。オレの傍から離れないでくれ」
「……は? ちょ、ちょっと!?」

(まさか、また薬の効果……!?)

「……チッ。まだ息があったんか」
「弱いくせに、しぶといですね。本当に、あなたたち有心会のひとたちはどうしてそんなにしつこいんですか」
「ちょ、ちょっと落ち着いて。この人、怪我人なのよ!? っていうか、若。あなた今すごく不穏な発言をしなかった?」
「どうして庇うんだよ。お嬢、あんた……そいつを選ぶのか?」
「選ぶとか、そういうことじゃないでしょう!?」
「撫子……。オレじゃ駄目か……?」
「ちょ、ちょっと! 後ろから抱きつかないで……っ!」
「なにどさくさに紛れてひと昔前のドラマの名シーン再現しようとしてんですか。気安くこのひとに触れないでください」
「痛……っ、ちょっと、あなたたち落ち着いて……っ!」
「やめろ、お前ら……っ、嫌がってるだろ。撫子の腕を離せ」

ビショップと若、それぞれが撫子の右と左の腕を取り合って引っ張る。右へ左へ行ったり来たりと物のように扱われて、撫子の我慢は限界を突破しそうだった。

「落ち着くのだ、そなたたち」

場を収めようと明朗な声をあげたのは、これまでどこに行っていたのか、ひとり戦いを傍観していた哲学者だ。
常であれば、あまり頼りになるとは思えない彼の姿が、今は誰よりも頼もしく見える。それ自体が非常事態だ、と撫子は思った。
それでも、左右のふたりは撫子の腕を引っ張り合うのをやめない。その様子を見た哲学者は、大きく息を吸い声を張り上げた。

「手を離した方が、本当の母親だぞ!」
「……………………は?」

ぴたりと、一瞬だけ双方の腕の力が緩んだ。ビショップと若は、互いに顔を見合わせる。――が、しかし。

「や、母親じゃねえし」
「そーですね。お守りが増えるなんて勘弁です」

哲学者の説得(?)も虚しく、彼らはすぐにまた撫子の奪い合いを再開した。

「な……っ!? そなたたち、かの有名な大岡裁きを知らぬのか!? 良いか、本当に撫子を思うのであれば、彼女が痛がる姿を見たくはないと片方が手を離し――」
「……無駄だ。そいつらにそんな良心的なこと、期待するな」
「どうでもいいから、この状況をどうにかして!」
「大人しくオレのモンになれよ。……っても、まあ気が強ぇ方がオレの好みではあるがな」
「どーするんですか、撫子さん。あなたがあちこちに無駄な愛想振りまくからこういうことになるんですよ」
「――君たち、彼女に何をしているの?」

背後から、その場にいた誰のものでもない低い男の声が聞こえた。静かに怒りを抑えたような、声。今度こそ撫子を拘束していた力がするりと緩んで両の腕が解放される。

「…………キング」
「……ビショップ。どういうことなのか、説明してくれる?」
「見ての通りですよ。彼女をめぐって有心会と戦っていました。【ビショップ】の役割なら、当然のことでしょう」
「そう。けど、なんだかいつもの戦いとは違っていたよね。彼らは俺たち政府に対する【人質】として彼女を狙っているはずだけど、さっきの君たちの戦いを見ていたら、それだけじゃなさそうだった」
「そんなの、ぼくが説明なんてしなくても、あなたなら分かるでしょう」
「……まあ、ね。それにしても君が彼女をそんな風に思ってたなんて」
「意外ですか? それも、あなたになら分かっていたはずでしょ」
「予想はしてたよ。今、こうして聞くまで確証はなかったけど、そうなのかなって思ってた」

ばちばちと、ふたりの間に静かな火花が散る。けれどキングはすぐにビショップから視線を外すと、今度は若たち有心会へ向き直った。

「なんだよ、仲間割れか? ま、オレらにとっちゃ好都合だけど」
「仲間割れなんてしないよ。それよりも今は、君たちから彼女を引き離して保護する方が優先だ。――ビショップ、話し合いは後だ。まずは彼らを退けないと」
「……そーですね。キングの仰せのままに」
「……んじゃ。遊びはこの辺にして、そろそろ本気で殺り合うか」
「渡さないよ。彼女のことは。……誰にも、ね」

当の本人を置いてきぼりに、何度目かになる撫子争奪戦の火蓋が今一度切られた。

(………………逃げよう)

彼らの注意が自分から逸れている今ならば、できる気がする。気づかれないようにそっと後ずさりをすると、撫子は踵を返して走り出した。

「あ……っ、撫子!? どこに行くの!?」
「もう……っ、私のことは放っておいて!!!!」
「待てよ、お嬢!」
「撫子!」

自分を呼ぶ声も無視をして、振り返らずに全力で走る。その後を追って、彼女を巡って戦っていた男たちもまた走った。



「おやおや、どうやら本当に大変なことになってるみたいですねー」

追いかけっこをする集団を遠くに、ルークはひとり目を細める。この状況を作り出した元凶は、収拾のつかない場を楽しんでいた。

「あーあ、どうすんだよ。アレ。元に戻んのかー?」
「大丈夫だよ。持続性のあるものじゃないはずだし、放っておいてもそのうち治まるでしょー」
「治まったら治まったで、またべつの争いになりそーだけどな」
「そっちはボクのせいじゃないですし。それに、各々まどわされてた時の記憶も残りにくいでしょうしねー。……でも、そろそろ切れてもいい頃なんだけどな」
「分量間違えたんじゃねえのか?」
「うーん。それはないと思いますけどー。まあ、そもそも彼女に対して何らかの好意を持っていたからこそ、効果が現れたわけだから。薬が切れても、今回のことで何かが芽生えたりしたのかもしれないねえ」
「それこそ、厄介だろーが。つーか、なんでオマエには効果ねーんだよ? ま、オマエのことだからどーせ自分だけ効かないように手ェ打ってたりすんだろーが」

訝しげな声で問うカエルに、笑顔を返す。遠くに聞こえる喧騒を耳にしながら、ルークは呟いた。


「さあ、どうだろう。そんな手を打たなくても、ボクにはまだ効かなかったと思うよ。……今はまだ、ね」




END.


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