第3回 レイン編

住居代わりと定めたホテルに戻る途中、レインは高架下で死体を見つけた。

最下層では死体などはそう珍しくはない。環境が劣悪なため、行き倒れる者、病死する者は多い上に、現在は朝だ。
何らかの理由で夜中に外をウロついて、ハンターと賞金首の戦いに巻き込まれた結果ということも充分に考えられた。

無視して通り過ぎようとした足を止めたのは、その死体がうめき声をあげたからだ。
死体と思われた男は血を吐き、レインの靴先を赤い飛沫が僅かに汚した。
予想外にまだ生きている。
命が残っている。
だが、生きているから何だというのか。関わる気などないし、どうせ死にかけているところなのだから、ゆっくり死なせてやればいい。
そもそも道端で死にかけているような男に関心なんてない。レインは一度止めた足で再び歩き出そうとした。
けれど。

「……」

不意に、先ほど聞いたファームでの話が頭に蘇る。

ナンバー・ナイン・ナイヴスという男がしていること。
馬鹿馬鹿しくもくだらない、命がけの人助けという行為。

「……チッ」

そんなことを心に留めていた自分にイラついて、レインは舌打ちをした。
ナイヴスという男に会ったことなどはないし、感化されるなど反吐が出る。……しかし。

「……ア、あー……」

絶えかけた命を震わせるように男が声をあげた。想像したよりも若いようだ。
もう死ぬことは免れない状況なのに、男は必死にまだ生きていることを主張している。こんなところで一人で死にたくはないと、最後の最後でもがいている。

そのことが酷く気に障った。か細い呻きも震える肩も、まるでレインに救いを求めているようで苛々する。
こういうのは無視して通り過ぎるのが一番良いとわかっているが、通り過ぎたからといって何事もなかったかのようにするのも難しいとレインは経験から知っていた。
どれほど見慣れていようと、見てしまったからには記憶に残る。

「……めんどくせーな」

考えることも、止めてしまった足を動かすのも億劫になり、レインは人生で一度だけの気まぐれを起こすことにした。
この男が死ぬまでなんて、どうせ大した時間じゃない。助ける気はない。たった数分付き合ってやるだけだ。

「おい、どうした」

レインの声に反応して、男の目が開かれた。焦点の合わない視線がぼんやりとレインをとらえる。薄汚れた作業着を見るに、どこかの労働者らしい。

「事故にでもあったか?」

男は倒れたまま首を振ろうとして、果たせずむせ返った。怪我のせいで呼吸が乱れているのかと思ったが、そもそもあまり酸素を取り込めていないのかもしれない。
これは多分肋骨が折れてるな、とレインは冷静に判断する。
折れた骨が肺に刺さっているか、肺自体に外的損傷があるのだろう。
本人に自覚があるかどうはわからないが、口から吐き出した血の色鮮やかさがそれを伝えている。

「……おれ、は」

レインの問いに、なぜ自分がここにいるのか思い出そうと、男はかき消えそうな声を上げた。

「工事の、最中に、落ちてきた資材の、下敷きになって。
怪我して、それで、ここに」

言葉を発したことで意識が少しクリアになったのか、男の目にかすかな理性の光が宿った。それを見下ろして、レインは軽く息を吐く。

「んで? ここで寝ててどうすんだよ。怪我したんなら医者行け医者。
最下層にだって医者はいるだろーが」

「ちが……おれは、上流階級層で、怪我、して」
「……上流階級層」

その単語に、レインの顔が激しく歪んだ。

他の階層で負傷した労働者が、最下層に捨てられる。
それは非常に分かりやすい夢限界楼の構造だ。

夢限界楼の階層は5つ。

特権階級層・通称「ヘヴン」。
上流階級層・通称「ソサエティ」。
中流階級層・通称「コミューン」。
労働者階級層・通称「C層」。

そして、最下層――貧困層と飛ばれる、名無しの階層。

階層という言葉の通り、それぞれの生活エリアは段階的に区別され、各階層の住人が入れ替わったり混じりあったりすることはほとんどない。
階層間を移動することはできても、生まれを変えることはできず、たとえ同じ階層に住んでいようと、上の階層出身の人間は下の階層の生まれの人間を差別し、蔑む。
それは特権階級に近づけば近づくほど強くなる感情であり、差別される側の人間の資質などは問題ではない。

重要なのはどこで生まれたかということ、その一点のみだ。
それが、レインの住む夢限界楼だった。

「……あァ、そういう理由で死にかけてんの、おまえ。
『上』で事故ってここに捨てられたと」

もう十年以上胸の奥に張り付いている苛立ちがまた燻り始め、レインの声が低くなる。
男の顎がかすかに動いた。うなずいたようだった。

「ずっと、上流階級層で、働いてて……そんで、今朝――きのう、かな。怪我したから、使えないって」

中流以上の階層に、肉体労働をする労働者などはいない。
上の階層は下が支える。従って汚れ仕事に従事する労働者は下層から上層へと働きに出ることが多い。
そのこと自体が夢限界楼を支える経済活動であるため、きちんと給与は支払われるが、危険な作業であればあるほど下層の人間が使われ、事故にあっても大した保障はない。
特に、それが最下層出身の人間であればより酷い扱いとなっていた。

「……最下層の奴は、『社員』じゃねえからどうでもいい。
面倒みる義務もない。
使えなくなったから元いたところに捨ててこいと、そういうことか」

「……」

男は返答もせず、ただ少し考え込むような遠い目をした。

あっけなく切り捨てた上層の人間を恨んでいるのか、
人間扱いされないと知っていて、わざわざ最下層を出た自分を悔やんでいるのか。
それはレインにはわからなかったが、男の表情には諦観が強いように思われた。

そもそも、最下層に生まれた自分が悪いのだと。
ひいては、夢限界楼に。

「……かえりたい」

ぽつり、と血まみれの吐息で男が呟いた。

「家にか?」
「……家」

問いかけたレインに、ぼんやりと男が返す。

「家……じゃ、ない。家は、ない。家族がいないから。
でも、かえりたい」
「家がないってんなら、どこに帰る気だ。
おまえの出身はここだろ」
「……ちがう。……いや、ちがわない。
けど……ここは、こんな場所は、いやだ……」

また意識が混濁してきているのか、男の言葉が不明瞭になり、その目が閉じた。瞼が震える。

「こんなのは、いやだ、しにたくない」

誰しも思う当たり前のことを、今頃気づいた真実のように口にして、男が続けた。

「こんなふうに死にたくない。
こんなとこで、こんな――
会いたい、怖い、おれ、俺、は――……」

男のまなじりから一筋の涙が零れ、顔を伝い落ちた。

「―――――。くそ」

呟いて、レインは膝を地についた。膝と服が汚れたがどうでもよかった。
乱暴に、その実注意を払って男の肩に手をかける。

「死ぬな馬鹿。すぐ近くに診療所がある。そこまでもたせろ」
「……」

再び男の瞼が震え、レインを見返した。
レインはその視線に構わず、傷ついた内臓を傷めないよう肩の下に手を入れ、抱え起こした。体を動かす痛みがあるだろうに、男は今更声もあげなかった。

「誰に会いたいんだかどこに行きたいんだか知らねえが、
下らない死にかたしてんじゃねぇ。
野良なら野良らしくしぶとく生きろ。諦めて受け入れんな。
おまえは死ぬために生まれてきたわけじゃねえだろうが」

「……」

男は、何か言ったようだった。

「なんだ、おまえ――」

それを聞き返そうとしたときに、がくん、と急に男の体が重くなった。
レインははっとして男を見返す。
まだ温かい、力が抜けただけで、さっきまでと何も変わらない。ただ。

「――――」

息が絶えている、その一点を除いて。

「……あぁ……馬鹿だな、おまえ」

ほんの一瞬目を伏せて、レインは嘆息した。
抱え上げた体を、ゆっくりと元通りに地に下ろす。
死体は最初からそこで死んでいたかのように、ごく自然に赤く汚れた地面に馴染んだ。

こんなことは珍しくもない話だ。
夢限界楼では、特にこの最下層ではごくありきたりの、日常的に起こる光景。
それを心に留めて気に病んで、何になるというのだろう。

立ち上がり、レインは男を見下ろした。

「……違うな。馬鹿は俺か。
関わっちまった方が悪い。
……どうせ、こうなるってわかってたのに」


気がつけば摩天楼の隙間から日が登り、世界を明るく照らし出している。

陽にさらされた死体は、さっきまで生きて会話を交わしていたことの方が嘘のようで、レインは白昼夢を見たような錯覚に囚われた。

すでに死んでいた男と、まだ生きているレイン。
取り残された、と思ってしまうのは罪悪感からだろうか。

「――じゃあな」

レインは何事もなかったようにその場を歩き出す。
靴についた血は乾き始めていた。


***

「上流階級層で事故があった」

ネムレスからの報告書を眺めていたバウンティアCEO、ゼクスは、呼びつけてあったエルとクーロンに向かってそう言った。

「特権階級層に繋がるダクトが破壊され、
それによりダクト破壊の影響で特権階級層へ穴があいた。
恐らく違うとは思うが、これはカットスロート・リッパー・スナッパーの犯行の可能性がある。
クーロン、エル。二人で現地調査をして来い」

え、と上がった声は一つ。クーロンのものだ。

「現地調査って、上流階級層ですか」
「特権階級層だ。奴が狙うとしたら特権階級層だからな。
話は通しておく。一時間待ってここを出ろ」
「……マジすか」
「了解しました」

うげ、と酷く嫌そうな顔をしたクーロンと、それに反して無表情に返したエルが二人で社長室を出ていく。
それを見送って、ゼクスは報告書にもう一度視線を落とした。

「……人が死んでいるな、これは」

死亡報告は書かれていないが、事故の規模からして人的災害がないはずがない。
ただ、最下層の人間が死んでも夢限界楼の運用には影響がないため、報告書には記載されないのだ。

「……」

僅かに目を伏せたゼクスは、報告書をデスクにおいて立ち上がった。

「……ノワールが戻る時間だな。行くか」

呟いて社長室を出ていく。
コートの裾が翻り、報告書が床に舞った。



END



©2010 IDEA FACTORY/DESIGN FACTORY