『おやすみ、ボクの大切なキミ』
オリオンは困り果てていた。
目の前の机には、オリオンと感覚を共有する少女が突っ伏して眠っている。
まぶたには疲労の色が濃く、白い肌には不自然な赤みが差している。よく見ると髪の生え際には汗の玉まで浮いている。熱があるのだ。
バイトが終えたところまでは何とか笑顔だったのだが、疲労をこらえながらも着替えを終えたところで、気力が尽きたように倒れ込んでしまった。
それ以後、オリオンの呼びかけにも答えないし、目すら開かない。
家までもつと判断した自分のミスだ、とオリオンは思う。
『う〜……誰か来てよう』
終業後の事務所には、助けてくれそうな人の気配もない。
少し前まで彼女の友人であるサワやミネがいたのだが、彼女の様子がおかしいことには気付かないまま、着替えを終えて帰ってしまった。
あの時、助けを求めるようアドバイスするべきだった。
今さら考えても遅いけれど、オリオンは悔やまずにいられない。
友人たちに心配をかけまいといつも通り振る舞う彼女の強がりを、止めておけばよかった。
オリオンは精霊だ。
本来この世界とは別の場所で暮らす存在であり、人類に干渉することはできない。触れられない、しゃべれない、目に映ることもできない。物を動かすこともできない。
それが、ひょんなことから彼女と同化することになってしまった。
事故のような同化現象は彼女から記憶を奪い、彼女は最低限の一般常識を除いて全てを忘れてしまった。
その上彼女は1人暮らしで、周囲にいる友人たちは誰も彼も一癖あって、素直に頼り切ってしまうのがはばかられる。
責任を感じたオリオンは、記憶のない彼女のアドバイザー役を買って出た。
今のオリオンは、彼女にだけ見える、彼女のための精霊だ。
頼るべき人がわからない状況の中、不安の中にいる彼女の唯一の味方として、それなりに役立っているつもりでいる。
しかしこうして彼女が意識を閉ざしてしまえば、誰の目にも触れないオリオンにできることはない。
『ねえ、ちょーっとだけ起きよう?』
眠る彼女に呼びかける。
『とにかく誰かに助けてもらおう。
ちょっとだけ頑張って、携帯に手を伸ばして。ほんの3プッシュくらいだからさ。
電話1本かけてから寝よう! 電話1本! ねっ!』
しかし彼女は反応しない。
『ああっ! 火事だ! 大変だ、電話をかけなきゃ!
……っていうのはダメか……』
このままでは余計に容体を悪化させてしまう。
わかっているのに、オリオンには呼びかけることしかできない。
本気で途方に暮れそうになった時、店側に続く扉が開き、見覚えのある背の高い人物が2人事務所に入ってきた。
『イッキ! ケント!』
談笑しながら入ってきた2人は、バイトの同僚だ。
まだ制服を着ているから、居残って片付けでもしていたのだろうか。
『見て見て、この子のこと見て!』
広くはない事務所だから、突っ伏して寝ている彼女は目立つ。
当然2人は目に止めたようだった。
「あれっ? こんなとこで寝てる子がいる」
イッキは足を止め、ケントもちらりと彼女を見やった。
ここぞとばかりオリオンはアピールする。
『寝てるだけじゃないの! 具合が悪いの! 家まで連れて帰ってあげて!』
しかしもちろんイッキたちにオリオンの声が聞こえるわけもなく、どれだけ手を振って見せても視界には入らない。
「そういえば休憩の時にも疲れた様子を見せていたな。寝かせてやってはどうだ」
『あああっ! ケントめ、余計なことを!』
「ふうん、そうなんだ。じゃあ少し寝かせてあげようかな」
『納得するなっ! イッキっ!』
興味が失せたのか、ケントはさっさと更衣室の方へ向かってしまう。
それを見送ったイッキは、いたずらっぽい笑みを浮かべて彼女に近付いた。
「おやすみ」
ケントが見ていないことを確かめて、さらりと彼女の髪を撫でる。
オリオンは思わずイッキの後ろ頭に向かって拳を振り上げていた。
『このドスケベ! その子に触んな!!』
人類に触れられないことは当然わかっているから、気分だけだ。
しかし、結果的にそのいたずらは彼女を助けたらしい。
「あれ?」
額に触れたイッキは、彼女の熱に気付いたようだった。
「熱いな……」
改めて手の平で熱を計り直して、眉をひそめる。
「もしかして、寝てるわけじゃなくて具合が悪いの?」
『そう! そうなんだよ!』
イッキの言葉が聞こえたのだろう、更衣室へ入りかけていたケントも足を止めて戻ってくる。
「具合が悪いだと?」
「うん、そうかも。すごい熱」
2人が彼女を揺り起こし始める。
大丈夫だ、これで2人が助けてくれる。
やっと安心して、オリオンは1歩後ろに下がった。
『よかったー……』
イッキのおかげだと言ってしまうのは腹が立つけれど、助かったのは事実だ。
後は2人に任せておけばいいだろう。
悪ふざけの好きな2人ではあるが、具合の悪い彼女に滅多なことはしないはずだ。
「起きないね」
困ったようにイッキが呟く。
「んー……どうしよ、うち連れてこっかな」
前言撤回、やはり問題のある人物に拾われた。
「待て。なぜ君の家なんだ。
女性を連れて行くに相応しい場所とはとても思えない」
『そーだそーだ、言ってやれケント』
「でも僕、彼女の家知らないんだよね。ケンも知らないでしょ?」
「まあ、知らないがね」
「彼女も1人暮らしのはずだから、家族は頼りにできないし。
ひとまず僕の家に連れて行って世話をするってことで、仕方ないんじゃない?」
『仕方なくないっ!』
2人から見えないことは承知で、オリオンは大事な彼女を守るように立ちはだかる。
『この子の家はっ! 店を出て大通りを南へ一区画分進んで、路地を曲がって高架下をしばらく歩いて踏切を渡って住宅街を西へしばらく進んだところにある綺麗なマンションだからっ! ボクが知ってるからっ!』
だがそんなことを説明しても聞こえるわけがない。
イッキとケントは顔を突き合わせて悩んでいる。
「まあ待て。君の家で目覚めた場合、彼女の精神的ショックが大きいだろう。
ことによると、身の危険を感じ、ストレスから病状を悪化させるかもしれない」
「君は僕を何だと思ってるわけ?」
「こと女性に関しては信用できないことこの上ないと思っている」
「じゃあ君の家ならいいの? でもご両親と同居だから、彼女が気を遣うよね?」
「1人暮らしの男の家なら気を遣わないとでも思うのか?」
「ケンの難しい顔見てるよりはマシじゃない?」
「君の好色な視線にさらされるよりはマシだろう」
見当違いの方向でやり合い始めた2人に、オリオンは机を叩いて抗議する。
『そんなことでケンカしてる場合っ!?
ほんっと大人げないんだから2人ともっ!』
オリオンの言葉が届いたわけでもないだろうが、ケントが咳払いをして無駄な議論を打ち切った。
「いや、話を振り出しに戻そう。
どちらの家へ連れて行くのも問題だ。
こういう場合、普通は保護者を呼び出すものじゃないか?」
「保護者ねえ……たしか遠くにいるって聞いたような気がするな。海外だったかな?」
「では、保護者代わりの緊急連絡先だ。
店の雇用票に記入する欄があったはずだ。店長に聞けば見せてくれるんじゃないか?」
「ああ、そんなものもあったね」
やっとまともな提案が出てきた。
『頼むよ、もー……』
オリオンはため息をついて肩の力を抜いた。
とにかく、これで家に連れ帰ってもらうことができそうだった。
緊急連絡先を知ることができるのは、思わぬ副産物とも言える。
「店長はまだレジのとこかな」
ケントにその場を任せ、イッキがフロアの方へと続く扉を開く。
この機会に雇用票とやらを覗かせてもらえれば情報収集になるかもしれない。
店長に掛け合おうと事務所を出て行くイッキの後ろを、オリオンはこっそり尾けていった。
* * *
彼女の緊急連絡先に指定されていたのは、トーマの実家だった。
連絡を受けたトーマはすぐに駆けつけ、ぐったりした妹分を抱き上げてタクシーに乗せて運んでくれた。
マンションの前ではシンが薬局の袋と共に待っていた。
取るものもとりあえずといった様子で駆けつけたトーマだったが、来る前に買い出しを頼んでおくことは忘れなかったらしい。
2人を迎えたシンは、躊躇なく彼女の鞄を開け、鍵を取り出して扉を開けた。
色々言いたいことはあるが、非常時なので仕方ないとする。
勝手知ったる他人の家という雰囲気で家の中のものを触っていたのも、非常時なので致し方ない。
むしろ、そんな風に振る舞えるほど親しい仲だったということは、オリオンと彼女にとって重要な新情報だった。
「……トーマ。おまえはいつまでそいつの傍にくっついてるつもりなの」
てきぱきとお粥を作っていたシンが、その間ずっと枕元に詰めていたトーマに呆れたような声をかける。
部屋に妹分を運び込んで布団を掛けてやってから、トーマは彼女の手を放していない。
それ以上ベタベタ触れないよう目を吊り上げて見張っていたオリオンのことは、当然見えていないだろう。
「サワからこっち来るって連絡あったし、オレたちは帰るぞ」
「えー」
「えーじゃないだろ。オレたちがいたら休めないだろうが」
「まあ、サワが来るまでいいだろ」
「せめて手を放せよ。子供じゃあるまいし、男に手握られてて落ち着くと思ってんの」
「わかってるよ。あーあ、おまえに説教されるようになるとはね」
渋々といった様子で手を放したトーマは、シンが枕元に置いたメモを見て眼を細める。
「……で、おまえはそういう書き置きを残すわけ。
俺の目を盗んで何するつもりなのよ」
メモには、『体調が悪化したら、オレに連絡しろ』とシンの署名が入っている。
「目を盗むってどういう意味だよ。単にオレの家が一番近いからだろ」
「サワに任せるんじゃないの」
「サワが帰った後、体調が急変する場合だってあるだろ」
「サワが帰った後? 寝込んでる女の家に1人で上がり込む気か。常識考えろ」
「寝込んでる女の手握りしめてたヤツに常識語られたくない」
「わざとらしい言い方すんな。こんなの子供の看病と同じだっつーの」
「オレだって同じ。変な目で見んな」
無言のにらみ合いの末、『オレに』が二重線で消されて『トーマの親に』と書き直された。
「……これでいいだろ」
「いいんじゃない」
微妙な緊張状態がほどける。
様子を見ていたオリオンは、たまりかねて叫んでいた。
『まったくもう!
イッキといいケントといい、みんなでこの子の看病権を争うのやめてよね!
看病してくれるのはありがたいけど!』
言ってやりたい言葉は、2人に届かない。
オリオンにできるのは、いつも見守っていることだけだった。
* * *
そしてオリオンは、やっと穏やかな気持ちで彼女の傍に座っている。
薬が効いたのか、その後数時間もすると彼女の体調は落ち着いてきた。目を覚ましてお粥を少し食べた後は熱も微熱程度になり、シンたちと入れ違いでやってきたサワも家に帰っていった。
みんなが帰ってしまった今は、とりあえず2人きりで、平和で、安全だ。
『ねえキミ……大変だったね』
眠ったままの彼女に、オリオンはゆっくり語りかける。
『でも、みんなが助けてくれたよ。
キミが寝てるからってイタズラした不届きものもいたけど、キミの具合が悪いってわかったら、すごく心配してた』
オリオンには何もできなかった。
ただ彼女を心配するだけで、抱え上げて運ぶことはおろか、助けを呼ぶことすらできなかった。
人類と関わることのできないオリオンは、今日みたいなことがあった時何の役にも立てない。
だけど、目覚めた彼女に見ていたものを報告することはできる。
『ボクのこの話を聞いて、キミはどう思うかな。
あいつらの誰かに記憶喪失を打ち明けたいって思うかな。
目が覚めたら相談しようね』
寄る辺もないように見えた彼女の境遇だけれど、紐解いていけば繋がりが見えてくる。信用できる人間も見えてくる。
その判断をするために情報を集めていくのが、オリオンにできる精一杯だ。
『キミがちょっと気にしてるアイツのことも、ボク見てたよ。
目が覚めたら、見たこと聞いたこと、全部教えるね』
記憶を失わせてしまった彼女の傍で、何もできない自分に打ちひしがれそうになることもある。
守ってあげたい時に守ってあげられなくて、もどかしい思いをすることもある。
だけど不安の中で目覚めた彼女がオリオンを見てほっとしたように笑う時、オリオンも少しほっとする。
こんな自分にもできることがあると、そう思えるのだ。
『おやすみ、また明日ね』
眠る彼女にささやいて、邪魔にならないよう姿を消す。
彼女が眠っている間のちょっとした出来事は、頼る人を探す2人の道しるべになりそうだった。
目の前の机には、オリオンと感覚を共有する少女が突っ伏して眠っている。
まぶたには疲労の色が濃く、白い肌には不自然な赤みが差している。よく見ると髪の生え際には汗の玉まで浮いている。熱があるのだ。
バイトが終えたところまでは何とか笑顔だったのだが、疲労をこらえながらも着替えを終えたところで、気力が尽きたように倒れ込んでしまった。
それ以後、オリオンの呼びかけにも答えないし、目すら開かない。
家までもつと判断した自分のミスだ、とオリオンは思う。
『う〜……誰か来てよう』
終業後の事務所には、助けてくれそうな人の気配もない。
少し前まで彼女の友人であるサワやミネがいたのだが、彼女の様子がおかしいことには気付かないまま、着替えを終えて帰ってしまった。
あの時、助けを求めるようアドバイスするべきだった。
今さら考えても遅いけれど、オリオンは悔やまずにいられない。
友人たちに心配をかけまいといつも通り振る舞う彼女の強がりを、止めておけばよかった。
オリオンは精霊だ。
本来この世界とは別の場所で暮らす存在であり、人類に干渉することはできない。触れられない、しゃべれない、目に映ることもできない。物を動かすこともできない。
それが、ひょんなことから彼女と同化することになってしまった。
事故のような同化現象は彼女から記憶を奪い、彼女は最低限の一般常識を除いて全てを忘れてしまった。
その上彼女は1人暮らしで、周囲にいる友人たちは誰も彼も一癖あって、素直に頼り切ってしまうのがはばかられる。
責任を感じたオリオンは、記憶のない彼女のアドバイザー役を買って出た。
今のオリオンは、彼女にだけ見える、彼女のための精霊だ。
頼るべき人がわからない状況の中、不安の中にいる彼女の唯一の味方として、それなりに役立っているつもりでいる。
しかしこうして彼女が意識を閉ざしてしまえば、誰の目にも触れないオリオンにできることはない。
『ねえ、ちょーっとだけ起きよう?』
眠る彼女に呼びかける。
『とにかく誰かに助けてもらおう。
ちょっとだけ頑張って、携帯に手を伸ばして。ほんの3プッシュくらいだからさ。
電話1本かけてから寝よう! 電話1本! ねっ!』
しかし彼女は反応しない。
『ああっ! 火事だ! 大変だ、電話をかけなきゃ!
……っていうのはダメか……』
このままでは余計に容体を悪化させてしまう。
わかっているのに、オリオンには呼びかけることしかできない。
本気で途方に暮れそうになった時、店側に続く扉が開き、見覚えのある背の高い人物が2人事務所に入ってきた。
『イッキ! ケント!』
談笑しながら入ってきた2人は、バイトの同僚だ。
まだ制服を着ているから、居残って片付けでもしていたのだろうか。
『見て見て、この子のこと見て!』
広くはない事務所だから、突っ伏して寝ている彼女は目立つ。
当然2人は目に止めたようだった。
「あれっ? こんなとこで寝てる子がいる」
イッキは足を止め、ケントもちらりと彼女を見やった。
ここぞとばかりオリオンはアピールする。
『寝てるだけじゃないの! 具合が悪いの! 家まで連れて帰ってあげて!』
しかしもちろんイッキたちにオリオンの声が聞こえるわけもなく、どれだけ手を振って見せても視界には入らない。
「そういえば休憩の時にも疲れた様子を見せていたな。寝かせてやってはどうだ」
『あああっ! ケントめ、余計なことを!』
「ふうん、そうなんだ。じゃあ少し寝かせてあげようかな」
『納得するなっ! イッキっ!』
興味が失せたのか、ケントはさっさと更衣室の方へ向かってしまう。
それを見送ったイッキは、いたずらっぽい笑みを浮かべて彼女に近付いた。
「おやすみ」
ケントが見ていないことを確かめて、さらりと彼女の髪を撫でる。
オリオンは思わずイッキの後ろ頭に向かって拳を振り上げていた。
『このドスケベ! その子に触んな!!』
人類に触れられないことは当然わかっているから、気分だけだ。
しかし、結果的にそのいたずらは彼女を助けたらしい。
「あれ?」
額に触れたイッキは、彼女の熱に気付いたようだった。
「熱いな……」
改めて手の平で熱を計り直して、眉をひそめる。
「もしかして、寝てるわけじゃなくて具合が悪いの?」
『そう! そうなんだよ!』
イッキの言葉が聞こえたのだろう、更衣室へ入りかけていたケントも足を止めて戻ってくる。
「具合が悪いだと?」
「うん、そうかも。すごい熱」
2人が彼女を揺り起こし始める。
大丈夫だ、これで2人が助けてくれる。
やっと安心して、オリオンは1歩後ろに下がった。
『よかったー……』
イッキのおかげだと言ってしまうのは腹が立つけれど、助かったのは事実だ。
後は2人に任せておけばいいだろう。
悪ふざけの好きな2人ではあるが、具合の悪い彼女に滅多なことはしないはずだ。
「起きないね」
困ったようにイッキが呟く。
「んー……どうしよ、うち連れてこっかな」
前言撤回、やはり問題のある人物に拾われた。
「待て。なぜ君の家なんだ。
女性を連れて行くに相応しい場所とはとても思えない」
『そーだそーだ、言ってやれケント』
「でも僕、彼女の家知らないんだよね。ケンも知らないでしょ?」
「まあ、知らないがね」
「彼女も1人暮らしのはずだから、家族は頼りにできないし。
ひとまず僕の家に連れて行って世話をするってことで、仕方ないんじゃない?」
『仕方なくないっ!』
2人から見えないことは承知で、オリオンは大事な彼女を守るように立ちはだかる。
『この子の家はっ! 店を出て大通りを南へ一区画分進んで、路地を曲がって高架下をしばらく歩いて踏切を渡って住宅街を西へしばらく進んだところにある綺麗なマンションだからっ! ボクが知ってるからっ!』
だがそんなことを説明しても聞こえるわけがない。
イッキとケントは顔を突き合わせて悩んでいる。
「まあ待て。君の家で目覚めた場合、彼女の精神的ショックが大きいだろう。
ことによると、身の危険を感じ、ストレスから病状を悪化させるかもしれない」
「君は僕を何だと思ってるわけ?」
「こと女性に関しては信用できないことこの上ないと思っている」
「じゃあ君の家ならいいの? でもご両親と同居だから、彼女が気を遣うよね?」
「1人暮らしの男の家なら気を遣わないとでも思うのか?」
「ケンの難しい顔見てるよりはマシじゃない?」
「君の好色な視線にさらされるよりはマシだろう」
見当違いの方向でやり合い始めた2人に、オリオンは机を叩いて抗議する。
『そんなことでケンカしてる場合っ!?
ほんっと大人げないんだから2人ともっ!』
オリオンの言葉が届いたわけでもないだろうが、ケントが咳払いをして無駄な議論を打ち切った。
「いや、話を振り出しに戻そう。
どちらの家へ連れて行くのも問題だ。
こういう場合、普通は保護者を呼び出すものじゃないか?」
「保護者ねえ……たしか遠くにいるって聞いたような気がするな。海外だったかな?」
「では、保護者代わりの緊急連絡先だ。
店の雇用票に記入する欄があったはずだ。店長に聞けば見せてくれるんじゃないか?」
「ああ、そんなものもあったね」
やっとまともな提案が出てきた。
『頼むよ、もー……』
オリオンはため息をついて肩の力を抜いた。
とにかく、これで家に連れ帰ってもらうことができそうだった。
緊急連絡先を知ることができるのは、思わぬ副産物とも言える。
「店長はまだレジのとこかな」
ケントにその場を任せ、イッキがフロアの方へと続く扉を開く。
この機会に雇用票とやらを覗かせてもらえれば情報収集になるかもしれない。
店長に掛け合おうと事務所を出て行くイッキの後ろを、オリオンはこっそり尾けていった。
* * *
彼女の緊急連絡先に指定されていたのは、トーマの実家だった。
連絡を受けたトーマはすぐに駆けつけ、ぐったりした妹分を抱き上げてタクシーに乗せて運んでくれた。
マンションの前ではシンが薬局の袋と共に待っていた。
取るものもとりあえずといった様子で駆けつけたトーマだったが、来る前に買い出しを頼んでおくことは忘れなかったらしい。
2人を迎えたシンは、躊躇なく彼女の鞄を開け、鍵を取り出して扉を開けた。
色々言いたいことはあるが、非常時なので仕方ないとする。
勝手知ったる他人の家という雰囲気で家の中のものを触っていたのも、非常時なので致し方ない。
むしろ、そんな風に振る舞えるほど親しい仲だったということは、オリオンと彼女にとって重要な新情報だった。
「……トーマ。おまえはいつまでそいつの傍にくっついてるつもりなの」
てきぱきとお粥を作っていたシンが、その間ずっと枕元に詰めていたトーマに呆れたような声をかける。
部屋に妹分を運び込んで布団を掛けてやってから、トーマは彼女の手を放していない。
それ以上ベタベタ触れないよう目を吊り上げて見張っていたオリオンのことは、当然見えていないだろう。
「サワからこっち来るって連絡あったし、オレたちは帰るぞ」
「えー」
「えーじゃないだろ。オレたちがいたら休めないだろうが」
「まあ、サワが来るまでいいだろ」
「せめて手を放せよ。子供じゃあるまいし、男に手握られてて落ち着くと思ってんの」
「わかってるよ。あーあ、おまえに説教されるようになるとはね」
渋々といった様子で手を放したトーマは、シンが枕元に置いたメモを見て眼を細める。
「……で、おまえはそういう書き置きを残すわけ。
俺の目を盗んで何するつもりなのよ」
メモには、『体調が悪化したら、オレに連絡しろ』とシンの署名が入っている。
「目を盗むってどういう意味だよ。単にオレの家が一番近いからだろ」
「サワに任せるんじゃないの」
「サワが帰った後、体調が急変する場合だってあるだろ」
「サワが帰った後? 寝込んでる女の家に1人で上がり込む気か。常識考えろ」
「寝込んでる女の手握りしめてたヤツに常識語られたくない」
「わざとらしい言い方すんな。こんなの子供の看病と同じだっつーの」
「オレだって同じ。変な目で見んな」
無言のにらみ合いの末、『オレに』が二重線で消されて『トーマの親に』と書き直された。
「……これでいいだろ」
「いいんじゃない」
微妙な緊張状態がほどける。
様子を見ていたオリオンは、たまりかねて叫んでいた。
『まったくもう!
イッキといいケントといい、みんなでこの子の看病権を争うのやめてよね!
看病してくれるのはありがたいけど!』
言ってやりたい言葉は、2人に届かない。
オリオンにできるのは、いつも見守っていることだけだった。
* * *
そしてオリオンは、やっと穏やかな気持ちで彼女の傍に座っている。
薬が効いたのか、その後数時間もすると彼女の体調は落ち着いてきた。目を覚ましてお粥を少し食べた後は熱も微熱程度になり、シンたちと入れ違いでやってきたサワも家に帰っていった。
みんなが帰ってしまった今は、とりあえず2人きりで、平和で、安全だ。
『ねえキミ……大変だったね』
眠ったままの彼女に、オリオンはゆっくり語りかける。
『でも、みんなが助けてくれたよ。
キミが寝てるからってイタズラした不届きものもいたけど、キミの具合が悪いってわかったら、すごく心配してた』
オリオンには何もできなかった。
ただ彼女を心配するだけで、抱え上げて運ぶことはおろか、助けを呼ぶことすらできなかった。
人類と関わることのできないオリオンは、今日みたいなことがあった時何の役にも立てない。
だけど、目覚めた彼女に見ていたものを報告することはできる。
『ボクのこの話を聞いて、キミはどう思うかな。
あいつらの誰かに記憶喪失を打ち明けたいって思うかな。
目が覚めたら相談しようね』
寄る辺もないように見えた彼女の境遇だけれど、紐解いていけば繋がりが見えてくる。信用できる人間も見えてくる。
その判断をするために情報を集めていくのが、オリオンにできる精一杯だ。
『キミがちょっと気にしてるアイツのことも、ボク見てたよ。
目が覚めたら、見たこと聞いたこと、全部教えるね』
記憶を失わせてしまった彼女の傍で、何もできない自分に打ちひしがれそうになることもある。
守ってあげたい時に守ってあげられなくて、もどかしい思いをすることもある。
だけど不安の中で目覚めた彼女がオリオンを見てほっとしたように笑う時、オリオンも少しほっとする。
こんな自分にもできることがあると、そう思えるのだ。
『おやすみ、また明日ね』
眠る彼女にささやいて、邪魔にならないよう姿を消す。
彼女が眠っている間のちょっとした出来事は、頼る人を探す2人の道しるべになりそうだった。