福寿楼にしばらく滞在してから、いざ会計を済ませようとすると――

「葛城様、申し訳ありません。このカードは、お使いいただけないようです」
「えっ」

いつも支払いは手持ちのカードで済ませているだけに、僕は狼狽した。

(ひょっとして……使えないように手を回された?)

少し前までは問題なく使えていたのだから、そうとしか考えられない。
とはいえ、今は現金を持っていないから、他に宿泊費を払う術はないわけで……。

「その……、すみません。今、持ち合わせがなくて……」
「えっ!」

滞在中親身になってくれていた番頭さんも、さすがに困惑したみたいだ。

「うーん……。何か事情があるんでしょうが、さすがに無料ってわけにもいかないんですよね。
家の方に連絡していただくわけにはいきませんか?」
「そ、それは……ちょっと難しいです」

絶対に家に連絡なんてしたくない。そう思った僕に残された選択肢は、一つしかなかった。

「あの、ここで働かせてくれませんか」
「いや、そう言われましても……」
「宿泊代は働いて、必ずお返しします。だから……、お願いします!」

無茶を言っているのは百も承知だ。それでもなんとか頭を下げると――

「頭を上げてください、葛城様」

凛とした声に促されて顔を上げれば、そこにはこの福寿楼の女将が立っていた。

「拝見したところ、宿泊代を踏み倒そうとしていたわけでもなさそうですし。
そこまで仰るなら、身体で払ってもらいましょう」
「あ……、ありがとうございます!」

――そんなやり取りを経て、僕はここ……福寿楼で働くことになった。


「はあ……。旅館の仕事って、思ってた以上に大変なんだな……」

勤め始めて一週間になるけど、やることなすことうまくいかない。
お客さんの時は優しかった金太郎くんも、従業員になった途端に厳しくなった。

(カードさえ使えれば、こんな肉体労働しなくて済んだのに。それもこれも、あの人のせいだ)

苛立ち紛れに雑巾をぎゅうぎゅう絞っていると、

「なんだよ直ー、まだ拭き掃除終わってねえのか?」

金太郎くんが客室の見回りに来てしまい、僕はこっそりため息をつく。

「時間をかけて、丁寧に拭いているんです」
「嘘つけ。お前の場合、ただもたついてるだけだろーが」
「……仕方ないじゃないですか。こういうの、不慣れなんですから」

それでもサボってたわけじゃない。
だからそれを証明しようと、絞った雑巾でテーブルを素早く拭いて見せたけど――

「ああほら、そんな雑な拭き方すんなよ。ちゃんと……こう、隅っこも拭いてだなー」

そう言いながら、金太郎くんはお手本を見せてくれる。

「……金太郎くんって、見かけによらずこういう雑務は丁寧ですよね」
「あのなあ、感心してる場合じゃねえぞ。お前はさ、頼んだ仕事はこなそうとしてくれるけど、
仕事に対する情熱とか頑張りが足りねえんだよ」
「……それ、絶対必要ですか?」
「これだ。そりゃ雑務って体力使うし、お客様に直接感謝される仕事じゃねえかもしれねえ。
でも、絶対疎かにしちゃいけねえ仕事なんだからな」
「はあ。そういうものですか……」
「今はまだピンとこねえかもしれねえけどさ。そのうち、お前もやりがいに気付く日が来ると思うぜ」

金太郎くんはそう言ってくれたけど、僕は自分のそんな姿……想像も出来なかった。

(まあどのみちここで働くのも、宿泊代を返すまでの間ですもんね……)

このときの僕は、期限付きの居候生活に何の期待もしていなかった。
不謹慎だけど、いつもなら絶対できない経験をしてる……、そんな感覚で仕事と向き合っていたと思う。
仕事をする上で、一番重要なものが僕には欠落していた。
そうなった原因は、環境とか生い立ちによるものが大きい。でも、幸か不幸か僕は気付くことが出来た。

福寿楼で働かなかったら。

今はもう、そんなこと考えられない。
僕の価値観を変える出会いが待ち受けてるなんて、誰が想像できただろう。


そしてその出会いを経て、僕が金太郎くんの言葉の意味を本当の意味で理解するようになるのは――


まだ少し先の話。
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