音も無く。紡ぐ言葉も無く。
天つ風の戯れに散らされた花弁が、静かにこの身へ降り積もる。
空の青さも雲の白さも圧して頭上に広がるのは、慈愛の女神の象徴たる永遠の桜。
今日に至るまで、何度この場でこの光景を見上げて来ただろうか。
「すべては……、この樹から始まるのね」
足音さえ鳴りを潜める静かな薄紅色の世界で、そっと花蕾に手を伸ばした。

花紋の騎士を通じて、地上へこの大樹の恵みをもたらすこと。それこそがレーヌの使命だと聞かされて育ってきた。
救いの手を差し伸べられるのは、女神の依代・レーヌとして生まれた自分だけなのだと。
「十分理解していたはずなのに……、今になって不安がるなんて、情けないわ」
ユベールが知れば、失望するだろうか。
(……いいえ、ユベールのことだもの。わたしの心の内なんて見透かされているはず)
だからこそ彼は言うのだ。期待している、と。
それは、もう甘えは許されないという、無言の叱咤激励と考えて良いだろう。

花紋の騎士と顔を合わせたあの瞬間から、もう舞台の幕は上がっている。
選ばれた四人の個性あふれる面影に想いを馳せながら、小さなため息を落とした。

――北国ピヴォワンヌの騎士・レオン。
絶対であるはずの花紋の選定を覆し、自ら騎士位をもぎ取ったという前代未聞の騎士。
行動も性格もすべてが規格外な彼には、出会い頭から仰天させられたものだ。
初めての求愛と激しい抱擁に頭が真っ白になり、大変な失態も犯してしまった。
今後どうやって彼と接していけば良いのか――考えれば考える程、悩ましい。

――南国カンパニュールの騎士・ルイ。
流麗に、惜しみなく紡がれた賛辞は、心地よく耳をくすぐってくれたが……。
いかにも場馴れした様子からも、彼にとっては特別な意味を持たない言葉なのだろうと思えた。
すべては、あくまで礼儀の一環。
だとすれば、彼自身が本当の意味で自分をどう思っているのかは、未だ闇の中と言える。

――東国クリザンテームの騎士・ギスラン。
真っ向から向けられた鋭すぎる眼差しに含まれていたのは、落胆、失望、そして――苛立ち。
あんなにも明確な不信感をもって対峙されたのは初めてで、思わず身が竦んだ。
目下、誰より認められるのが困難な相手であることは間違いない。
果たして自分は、本当に彼の主として相応しい才覚を見せることができるのだろうか……。

――西国ウィエの騎士・オルフェ。
ギスランの威嚇に怯える心を慰めるように、明るい笑みで場の空気を変えてくれた彼。
今のところ誰より親しみやすさを覚えるが……、そんな彼が、当初、騎士の任に就くことを拒んでいたという浅葱からの報告が引っかかる。
その理由もいずれ知ることができるだろうか。

『どの騎士も一癖あって、骨が折れそうだ』
そんなユベールの言葉が、耳朶に蘇る。

……彼らはパルテダームの花人たちとは違う。
レーヌであるというだけで、無条件に自分を敬い慕ってくれるわけではない。
忠誠にせよ信頼にせよ、自ら得ようと努力しなければ、手にすることはできないものだ。
「すべては、わたし次第。……わかっているわ」
失敗は許されない。レーヌの長き空位が地上にもたらした痛みは、今も種人たちを苛んでいる。
与えられた責務の重さにうなだれている場合ではないのだ。凛と立ち、前を向かなければ。
騎士たちを従え、女神の依代として生きるのが己の定め。それを全うすることで、初めて自分の存在価値は認められる。
「必ずやり遂げてみせる。だから――」
どうか待っていて、と祈るように目を閉じる。

『――待っているわ』
「……え……?」
梢の声に目を開いた瞬間、ざあっと風が吹いた。

音もない、声もない、何もない。
振り返り見渡す風景は、常と何ら変わりなく。

幻か、それとも内なる不安が聴かせた声か――
再び見上げた桜は、ただ圧倒的な美しさを誇るように、己を見下ろすだけだった。

END