触れることは、許されるのだろうか。
生命の樹と称される神秘の塊を前に、真っ先に思ったのはそれだった。

「持ってくれば良かったな、竪琴……」
思わずそう呟いてしまうほどには、この景色は吟遊詩人としての感性をくすぐりすぎる。
この圧倒的なまでの美しさを表現するとしたら、どんな音、どんな詩を乗せるべきか――反射的にそう考えてしまうのは、性のようなものだ。

見るもの、聞くもの、触れるもの。
認識することは誰にでもできる。だが、そこに如何なる意味を持たせられるか――それが詩人の仕事なのだと、盲いた師は言った。
在るがままに伝えるのは三流。共感させられてやっと二流。その上で夢を見せるのが一流。
今の自分がどの段階であるかはわからない。
ただ、欲はある。若干、下世話な好奇心も。
「誰であろうと決して害すること許されぬもの。……浅葱はそう言ってたよね」
それはつまり、害意を抱いてさえいなければ、問題ないということではなかろうか。
「うん、そうだよ。僕はこの樹をどうにかしようなんて思わないし、そんなことできるはずもない。ただ、ほんの少し触れさせてもらうだけ――」
我ながら呆れるほどに躊躇いはなかった。
頭の片隅で、もし浅葱に知れたらさぞ怒られるだろうとは思ったが、この誘惑には勝てない。

「ごめんなさい。……失礼します!」
誰が見ているわけでもないが、精一杯の気持ちを込めて一礼すると、後は迷わずに近づいた。

たおやかにしな垂れる枝ぶりは、まるで天から地へと降り注ぐ雨のようだった。
薄紅に染め上げられた世界に圧倒されながら、それでも確かな意思をもって静かに手を伸ばす。
指先がわずか、花びらに触れた。その瞬間、
「う、わ……!」
どんなからくりなのか、それともただの偶然か、不意に吹き抜けた風がふわりと枝を揺らした。
悪戯のように頬に触れた花びらは、しっとりと柔らかく肌をくすぐる。拍子抜けするほどあっさり叶った接触に、思わず笑みがこぼれた。
「……これって一応、赦されたってことかな?」
ほんの少しくらい自惚れてみても良いだろう。
誰もいない、今だけならば。

新たなレーヌの誕生に伴い、花紋の騎士を選定する――その一報は、旅の最中にあった自分の耳にも届いていた。だが、まさかそれが我が身に降りかかってこようとは想像もしていなかった。
孤児として生まれ、物心つく前の記憶すらない。
自分が何者かもわからない、そんなあやふやな人間に、国の存亡をかけた重責を担わせるなど、正気の沙汰ではないと思った。
だが、選定は絶対であり、選ばれたという事実こそが答えである。誰もがそう言い、なし崩しのように事は進み、そのための教育を受けてきた。

そして今、彼は騎士としてこの聖域にいる。

神秘の花に頬を寄せながら、先日対面を果たしたばかりの姫君の面影を辿る。
繰り返し歌い継がれる詩曲に讃えられるような、綺麗なお姫様だと素直に思った。

超然と取り澄ました表情はまるで精巧な人形のようでもあり――自分たちとは別格の存在なのだと思い知らされ、少し寂しくも思った。
……が、その表情は、自身の直前に紹介を受けた東の騎士の険しい態度に一変した。
あからさまな敵意を向けられた彼女の瞳は不安に揺れ、その瞬間だけ、レーヌとしてではない、一人の少女としての顔を覗かせたのだ。
その変化は驚くほど、自分の心を動した。
(怖がらないで。どうか笑って)
そんな思いに突き動かされるように、緊迫した場の空気を壊し、わざとおどけてみた。
すると彼女は笑ったのだ。ホッとしたように、強張らせた肩をゆっくりと下ろしながら。
それがとても、嬉しかった。

自分が本当に騎士に相応しい者なのか、未だに信じきれず、騎士を名乗ることに引け目もある。正直に言えば、自信もない。

けれど、彼女を微笑ませることならできる。
今はそれだけが、自分にとっての救いだった。

「いつか言えるのかな。僕が君の騎士だ、って」
苦笑交じりのその言葉に、風が笑う。するりと手の中から逃れた枝は、安易な問いかけを嘲笑うように揺れていた。
厳しいなあ、とため息をつき、空を見上げる。
「……言えたらいいな」
始まりの詩は、そんな小さな願望だった。

END