この樹の前に立つとき、常に想うのは、在りし日の女神の御姿だ。
パルテダームと地上の命運すべてを託し、永き眠りに就いた美しき慈愛の神――ミレーヌ。
彼女の姿を知る者は、今や自分だけとなった。

「地上には、もはや貴女の存在を知らぬ者すらいるという。それでも尚、自らを削り、その御力を注ぎ続けることを願われるか……」
そう呟き、苦い笑みを零す。

女神の答えなど聞くまでもない。あの方には最初から、地上を見捨てるという選択肢はなかった。
だからこその、パルテダーム。
だからこその、自分だ。
「今更このような感傷に浸るとは……、我ながら愉快ですらあるね」
新たなレーヌが生まれ、地上より騎士たちを迎え入れ、皆が与えられた使命を果たす。
彼らは、いずれすべての力を使い果たし、枯れゆくその時まで、ひたすらパルテダームの歯車として働くことを課せられている。
残酷なことを強いている、と嘆く者もいる。
だが、そうすることで救われる者もいる。
――それが、この世界の現実だ。
自分の役目は、彼らが道を誤らぬよう見守り、時に指示を出し、管理すること。
代を替え、幾度も繰り返されるこの舞台の成り行きを見届ける――それだけの存在。

『どうして、わたしなの』
『わたしでなければいけないの?』
『もう嫌。ユベールは意地悪だわ、嫌いよ!』

ふと思い出された幼き声に、頬が緩む。
泣きべそをかいては駄々をこね、それでも最後には「ユベールがいてくれなくては嫌」と、縋り付いてきた幼い手。
あの小さな姫が、今や次代のレーヌとして騎士たちを従える者となった。
歴代のレーヌをすべて見守ってきた自分でも、ヴィオレットには格別の思いがある。
彼女は知らない。如何に自分がレーヌの教育係であるとはいえ、こんなにも密接に世話し、慎重に育ててきたレーヌは他にいないと。
彼女は、特別だ。
誰とも替えのきかない、特別な存在。
自分にとっても。――この世界にとっても。

緩やかに頬を撫でる風が、内なる心を諌めるように吹き抜けていく。
それすらも、女神の意思なのか。だとすれば、あまりに無慈悲だと愚痴のひとつも零したい。
……とはいえ。
「酷なことを強いた……、とは思われぬのだろう。貴女はそういう方だ」
ひらひらと揺れ、落ちていく薄紅の欠片。
この樹が女神の力そのものならば、儚く散るだけの花びらは、いわば台詞を与えられなかった端役たち。だが、それらもまた、舞台を彩るためには必要な存在だ。誰もが主役にはなれない。
つと、手を伸ばし、揺れる枝ぶりを掴む。
恐れはない。少なくとも、自分にはこの程度の甘えは赦されているという自負がある。
しっとりと指に絡む花を見つめ、静かに唇を寄せながら、誰ともなく呟いた。
「……今再び、幕は上がる。役者はすべて揃った」

粗暴で無駄に情熱的な北の騎士・レオン。
優雅だが底知れない南の騎士・ルイ。
不遜にして頑なな東の騎士・ギスラン。
繊細だが強かさも併せ持つ西の騎士・オルフェ。

そして、手塩にかけた我が愛しき姫。
――レーヌ・ヴィオレット。

彼らの立つ舞台は、かつてなく見応えのある、荘厳にして痛ましい悲劇となるだろう。
それがわかっていても尚、止める気はない。
ただ見届ける者――それが自分の在り方だ。

『どうして、わたしなの』

美しき姫は、すべてを知ったとき、あのころと同じく涙するだろうか。
それでも自分の手に縋ろうとするだろうか。

だとすれば、自分はこれまでに幾度も姫に投げかけた言葉を繰り返すだけだ。
「大丈夫だよ。私はいつだって、姫の味方だ」
長い髪を撫で、手を取り、やさしく囁いて。

「だから安心しておやすみ。……ヴィオレット」

――歓喜に花開く、そのときまで。

END