人気投票1位記念スペシャルショートストーリー




「明日、休みだろ? 俺と一緒に出かけよう。連れて行きたいところがあるんだ」
 昨日の夜、お兄ちゃんは確かにそう言った。ここ最近大学からの帰りが遅く、なかなか会えない日が続いていたから本当に嬉しくて、わくわくしながら眠りについた。なのに。
「……いない」
 目を覚ますと、アパートには誰もいなかった。
「どこ行っちゃったんだろ……あ」
 ダイニングテーブルに、ラップのかかったサンドイッチが置いてあった。それから、『十三時にここで待ち合わせ』と書かれた手書きの地図とメモ。
(まるで、なぞなぞ)
 もう一度メモを見る。場所は、最寄り駅より五つ以上も先にある駅の広場だ。駅と、駅からの順路が書かれている。
(えっと、アパートから出発すると、電車に乗るだけで二十分くらい……?)
 スマホで検索して、地図を確認した。でも、その辺りに遊ぶような場所は見当たらない。
(デートかと思ったのにな)
 そう思ってから、急に恥ずかしくなる。
(もしかして私、ひとりではしゃいでる?)
 ちいさく息をついてから、左手を広げて目の前でかざした。薬指には、華奢なリングがはまっている。
(サイズ、ぴったり)
 サイズの話なんかしたこともないのに。誕生日でもクリスマスでもない日に、突然渡された。
「恋人みたい……」
 口に出すと、耳の先まで熱くなるのが自分でもわかった。
(そんなに深い意味はないのかも)
 軽いハグもキスも、家族の間ではスキンシップみたいなもので、それほど特別なことじゃない。
『大好き』も。
『愛してる』も。
 家族だから、当然の気持ちかもしれない。
(兄妹だし)
 血は繋がっていない。でも、物心ついたころにはいつも隣にお兄ちゃんがいた。
(ずっと好きだった)
 気づくと、お兄ちゃんを目で追いかけていた。
(お兄ちゃんも、よく私を見てた)
 ふとした弾みで、お互いの視線と視線が結び合う。それが、当たり前だった。
 まるで、最初から約束していたように。
(それが、すごく嬉しくて)
 なのに、姿が見えないととたんに心配になる。
(いますぐお兄ちゃんに会いたい)
 立ち上がって洗面所まで行き、鏡を覗き込んだ。
(こんな顔してちゃダメ)
 一番の笑顔でお兄ちゃんと一緒にいたい。
「笑ってなきゃ」

***


 メモとスマホに表示した地図を見比べながら指定された広場へ着くと、
「こっち」
 お兄ちゃんが笑顔で手を振っていた。
「お兄ちゃん!」
 慌てて駆け寄った私に、お兄ちゃんは嬉しそうに目を細めた。
「迷わなかった?」
「大丈夫。ごめんね。ちょっと待った?」
「ううん。いま来たとこ」
 そう言って、私の手をギュッと握った。
(あ、手……)
 家やアパートの近所では、絶対にしない。
(嬉しいな)
 そう思って見上げると、笑顔のお兄ちゃんと目が合った。
(同じこと思ってるって……思っていいのかな)
 嬉しい気持ちが半分、心配な気持ちが半分。同時に胸の奥で揺れる。
「行こう」
 そう言って、お兄ちゃんが先を歩き出す。
(昔となんにも変わってない)
 知らない場所へ行くのが好きだった。どこへ行くにもお兄ちゃんが必ず手を繋いで、前を歩いてくれたから。
 いつから、手を繋がなくなったんだろう。
 いつから、手を繋ぐことが当たり前じゃなくなって、こんなにドキドキするようになったんだろう。
「いつから……」
「いつからって、なにが?」
 お兄ちゃんが首を傾げたのを見て、ハッとした。
(いけない、いま声に出てた)
 慌てて俯いた。
「えっと……なんでもない」
「本当に?」
 真剣な顔で覗き込まれて、息が止まる。
「……うん」
「そっか」
 素っ気なく言って、お兄ちゃんの視線が逸れていく。
(あ……)
 自分がウソをついたのに。寂しいなんて、勝手だ。
(でも……本当のこと、言えない)
 なんだか今日は変だ。
(私、いろんなこと考えすぎてる。こんなこと言ったら、きっとお兄ちゃんを困らせちゃう)
 ひっそりと、気づかれないように深呼吸した。
「それよりお兄ちゃん、今日はどこへ行くの?」
 明るい声で言うと、お兄ちゃんが少し困った顔で笑った。
「やっぱそれ、訊く?」
「? 訊いたらダメだった?」
「ダメじゃないんだけどさ……」
 迷うように言葉を濁して、ややあってから「あそこ」と指をさした。
 見えたのは海だった。そういえばさっきから、風に乗って潮の香りがする。
(そういえば、海、近いんだっけ。でも……泳ぐような時期じゃないし)
 それに、海と言っても海水浴場はない。この先は確か客船ターミナルがあって、大きな船がいくつも停まっているはずだ。
「乗ってみたいって言ってたろ。船」
 また、お兄ちゃんが素っ気なく言って、早足になった。
「……すごいちっちゃいころだから、おまえ、覚えてないかもしんないけど」
 小さい声でそう言いながら、こっちを振り返らずに、どんどん進む。
 私も、なにも言えない。
(どうしよう)
 無邪気に喜べばよかったのに、タイミングを逃してしまった。
 お兄ちゃんの耳と首が、真っ赤なことに気づいてしまったせいで。
(嬉しい)
「わぁ……」
 船内は、まるで豪華なホテルみたいな造りをしていた。一歩足を踏み入れると、広々とした吹き抜け構造のエントランスで、オーケストラとハープが音楽を奏で始める。
「口、空いてる」
 ロビーの天井を見上げていると、お兄ちゃんにほっぺたをつつかれた。
「かわいい」
 こそりと耳許で言われて、頬の辺りで熱が弾けた。
「お、お兄ちゃん……!」
「転ばないように気をつけな」
 エントランスの天井には色とりどりのガラスがはめこまれ、目の前にはおとぎ話に出て来そうな大きい螺旋階段が緩やかにカーブを描いている。
 ふかふかのカーペットを踏みしめて奥へ進み、エレベーターに乗り込むと、シックな内装の廊下の先に客室が並んでいた。
 中は、広々としたリビングには大きなダイニングテーブルにソファ、ベッドルーム、バスルームがそれぞれ独立してついている。
「ほんとにホテルみたい」
「ワンナイトクルーズ。明日、目が覚めたら神戸湾だ」
「え、船に泊まるの? 私、なにも準備してない」
「必要なものは揃ってるから大丈夫。……ほら、見て」
 窓の外を見ると、ゆっくりと陸から遠ざかっていくのがわかった。
「もう逃げらんないよ」
 どきりとして振り返ろうとすると、背中から抱きしめられた。
「……逃げないよ」
「ほんと?」
「うん」
「そっか。よかった……」
 心底ホッとした声と吐息が、首筋をくすぐった。
「心配だったの? どうして?」
 お兄ちゃんが手を引いてくれるところなら、私はどこへだってついていくのに。
 そう口にするより早く、後ろから歯切れの悪い声がした。
「いや……おまえ、ひいてない?」
「? なんで?」
「船、思ったよりすごかったから。ちょっと気合い入れすぎたかもって、後悔してたとこ」
 本気で戸惑う空気が背中越しに伝わってくる。
「ビックリしたけど、すごく嬉しいよ」
「そっかあ……」
 お兄ちゃんは、大きな息をつきながら肩口に顔を埋めた。
「なんかこう……自分でもちょっと信じらんない。俺が、サプライズデートにワンナイトクルーズとか……どうかしてる」
「デート……」
 嬉しい響きに思わずつぶやくと、
「デートだよ。他になんだと思った?」
 少しムキになった声がして、音を立てて首筋にキスされた。
「……っ!」
「おまえのこと、全然知らない場所にさらいたかったんだよ。頼るのが俺しかいないところへ」
 低く甘く、お兄ちゃんの声が耳の奥に触れる。
「俺のものって感じがするでしょ」
(そんなことしなくたって、とっくに)
 振り向いて言いかけた言葉は、お兄ちゃんのくちびるに吸い込まれてしまった。
「ん……」
「そんで、お姫様みたいに扱いたい。うんと甘やかして、俺がいないとダメって言わせたい」
 キスの合間、くちびるが離れる瞬間に声が差し込まれて、そのたびに心臓が震える。
(私、息もうまくできないのに)
 くらくらして、背筋が甘く痺れて、堪えきれずにそのまま床へしゃがみこんだ。
「ね。俺のこと、一番って言ってよ。ウソでもいいから」
 くちびるが離れた。
 仰のくと、いままで見たことがないほど、切ない顔をしていた。
(こんな、強引なのに)
 必死にお願いされている。
(かわいい)
 そう言ったら、きっと、複雑な顔をする。だから代わりに、
「ウソなんか言わない」
 伸び上がって自分からキスをした。
「!」
「ずっと一番だよ。知らなかったの?」
 思い切ってそう言うと、見る見るうちにお兄ちゃんが真っ赤になった。
 だけど、たぶん私も。いまごろ、同じぐらい真っ赤になってる。
「おまえ……それ、反則。かわいくて、死にそう」
 本当にいまにも倒れそうな掠れた声で言って、また、キスが落ちてきた。
 深く、甘く。
(ふたりで溺れてるみたい)
 まるで、水底にいるみたいだ。酸素が足りなくて、喘ぐみたいな息づかいになる。
(こんなキス、兄妹だったらしない)
 本当はわかっていたのに。知らないふりをして、お兄ちゃんを不安にさせたかもしれない。
(ごめんなさい)
 背中に腕を回すと、お兄ちゃんの背中が震えた。
「……ほんとは、ウソでいいなんて、ウソだ」
 わかってよ、とお兄ちゃんが言って、もう一度。今度は静かに触れるだけのキスをした。
「俺のこと、もっと、ちゃんとわかって。おまえのことを俺がどんだけ好きで、どんだけ苦しいか、全部」
「うん……知りたい。もっと」
 アパートでひとりだったときの不安なんて、もう、一欠片も残っていなかった。
(私、嫌な子かもしれない)
 お兄ちゃんが苦しくなるたび、気持ちを全部吐き出すたびに、安心してる。
「大好きだよ、お兄ちゃ……」
 言いかけたところで、指が私のくちびるを塞いだ。意図がわからなくてまばたくと、やんわり私の腕をほどいて、それから、左手を口許まで掲げた。
「ね。今夜はひとつでいいから、俺のお願い、きいて」
 私の薬指にあるリングにそっと口づけてから、言った。
「俺の名前、呼んで」


Fin