鵜飼昌吾 編

「ほら、桜の花びらが開いたぞ。こんな飲み物を考えた者は風流だな」

僕はティーカップの中で揺れている塩漬けの八重桜を眺めた。

「今日、燕野煎餅に行った帰りに、近くの店で見つけてな。
きっとお前が好きだろうと思って買って……おい?」

先刻から、どうも彼女の様子がおかしい。

僕がこの桜湯を作り始めた頃からだと思う。
妙に照れ臭そうに、言葉少なに笑んでいる。

「お、おい……一体何なんだ? 言いたいことがあるならはっきり言え」
「な、何でもないわ! 八重桜、素敵ね!」
「それが何でもない態度か! 僕に隠し事などするな!」

彼女の表情から、僕が何か恥ずかしい真似をしてしまった予感はあった。
しかし、一時の恥のために真実の追究を諦めてはいけない。

「やはりこの桜湯……何かおかしいのか?」
「お、おかしくはないけれど……深い意味は……ないわよね?」
「浅い意味と深い意味があるのか」

僕の問いに、更に彼女の顔が赤くなった。
何かあるのだ。だが、今更引けるわけもない。

「そ、その……し、知っているかしら? 
桜湯ってお祝いの席に飲むことが多いのよ、特に……ゆ、結納や婚礼の時などね」
「な!!??」

僕は身を乗り出して叫んでしまった。

「い、いえ別にね、その日以外飲んではいけないという決まりはないのよ? だから今夜飲んでも別に間違いではないのよ?
ただ何か……あるのかしらと……な、何もないのよね? 
ごめんなさい、私だけが照れて! 考え過ぎだったわよね! 忘れて下さい、お願いします!」
「い、いやいや! 深い意味でもそう間違ってないから! 謝るな!」
「え!?」

僕はいたたまれなくなり、すっかり花開いた八重桜を凝視めた。

「知らなかった……世の中には大学の授業では教えてくれないものが沢山あるのだと痛感する」
「男性はこういうことは余り話さないかも知れないわね。
ほら、『お茶を濁す』って良い意味ではないでしょう? 特におめでたい席では。
だから晴れの席にはお茶を出さずに、この桜湯を出すのよ」
「成る程……覚えた。だがまぁいい、いつかまたお前と僕とで本物を飲むんだ」
「本物? この桜も本物でしょう?」
「『本物の』結納や婚礼の席、ということだ。
さっきも言ったろう、深い意味でも間違っていないと」

彼女はいっぱいに目を見開いた後、これ以上ないくらい赤くなった顔で僕を凝視める。

「僕はお茶を濁したりもしない、安心しろ」
「……は、はい」

そう、僕の妻となるのは彼女だけだ。
この桜湯は、丁度良い予行だと思えばいい。

「せっかくのものだし、冷めないうちに飲め」
「はい、いただきます」

彼女は微笑み、ティーカップに指を添える。

「でもね、実は桜湯……好きだから嬉しい。
女学校の卒業式前にね、お友達と茶話会をしたの。その時にも飲んだわ。
さっき昌吾も言っていたけれど、美しい飲み物よね」
「そ、そうだな」

不勉強ではあったが、彼女がこんなふうに喜んでくれるのならもう僕は満足だ。

「明日は帝都を二人で巡って、沢山本物の桜を見よう。丁度満開の頃にお前の休みがあって良かった」
「楽しみだわ! 府内でもまた行ったことのない場所が色々あるもの!」

嬉しげに言い、彼女は桜湯を一口飲む。
そして、浮かぶ八重の花びらと僕の顔と、部屋の中をゆっくりと眺める。

「ねぇ昌吾。貴方がこのアパートのこの部屋に来て……もうすぐ一年ね」
「え? ああ……言われてみれば……」

僕は思わず部屋を眺めた。

「不思議なものだな、たった一年しか経っていないのに……もうずっとこの部屋で暮らしていたような気がする」
「私もよ。もう昔からこのアパートに住んでいるような気持ち」

人生は、本当に何が起こるか分からない。

一年前の僕は自殺未遂をやらかした無力で世間知らずな子供だった。
自分の手で何かを手に入れることも守ることも出来ず、誰かを愛することも、愛されることも知らなかった。

そして今───少しは大人になったつもりだが、彼女の目に僕はどう映っているのだろうか。
桜湯も知らない、情けない恋人だと思われていなければいいが。

「……おい」

僕はいてもたってもいられなくなり、彼女を引き寄せて唇を重ねた。
洩れる吐息に桜の香りがふわりと混ざる。

「……桜湯の仕来りを知らなかった僕に、幻滅などしていないか? この一年の間に……何か不満などは芽生えていないか?」
「幻滅していないし、不満もありません。美味しい桜湯、ご馳走様でした」

優しく囁き、僕の髪をなでる。
少しくすぐったいが、彼女の指の感触は大好きだ。

「よし、来年もまたこの季節に……桜湯を飲もう」

そう、予行なのだ。彼女が本当に僕の妻になる時まで。

「素敵ね、楽しみにしているわ」

明日は二人で帝都の桜を愛でる。
だから僕は今夜、この花を愛でる───などと言っては気障過ぎるか。
黙っておこう。