深夜、突然降り出した雨。私は徒歩での帰宅を余儀なくされていた。
「ふぅ……出たばっかりだって言うのに……結構濡れちゃったな」
 お屋敷まではまだまだ時間がかかる。止む気配のない雨に堪りかねて私は、雨宿りをすべく傍にあった建物のひさしの下に入った。
「降り続きそうだな……」
 墨色に染まった空から、雨が隙間なく落ちてきている。これはいわゆる土砂降りという状態だろう。雨粒を拭いながらハァとため息を吐く。私はこんな日に限ってひとりリムジンに乗らなかったことを後悔していた。
「スバルくんの言うとおりにすれば良かったな……」
 放課後、どうしても読みたい小説があったので私は図書館に居残っていた。リムジンが来るまでには読み終えるつもりだったのだけど、じっくり読んでいたせいか、時間が足りなくなってしまったのだ。どういう風の吹き回しなのか、今日に限って迎えに来てくれたスバルくんは、イライラしながらもリムジンに乗るよう言ってくれたのに、小説の続きに夢中になっていた私は、ひとりで帰るから平気だと返事をしてしまったのだった。
「怒ってるだろうな、スバルくん……」
 想像するまでもないことを思うと、再びため息が漏れる。あの場でスバルくんがそっけなく行ってしまったことが不思議なくらいに、ちょっとどころか大分失礼な態度を取ってしまった。今更反省したところで遅いけど……と思っていると……。
「怒ってるに決まってんだろ」
「え!?」
 いきなり背後から声がしてハッとして振り返る。すると、そこにはなぜかびしょ濡れになったスバルくんが佇んでいた。
「な、んで? スバルくん……? 先に帰ったんじゃ?」
「チッ……先に帰ったんだ。けど……その……雨が降ってきやがったから……!」
「え?」
 雨が降り出したのはほんの十分ほど前の話だ。学校を出た途端に降りだしたから間違いはない。けれど、スバルくんが図書館まで声を掛けに来てくれたのは一時間以上前のこと。
「待っててくれたの?」
 恐る恐る伺うと、スバルくんは不機嫌極まりない表情をする。
「……は? 何言ってんだ。待つって……お前を? んなわけねえだろ……!」
 吐き捨てるように言って、スバルくんは足元に転がっていた空き缶を勢いよく蹴り飛ばした。この様子から察するに、どうやら、待っていてくれていたらしい。それもこの雨の中で。
「……とにかく、拭いて……?」
 ありがとうだなんて言ったらきっと怒るだろう。そう思いながら私は、濡れたスバルくんの髪の毛にハンカチを当てる。
「お前も……びしょ濡れだぜ?」
 大人しくハンカチで拭かれつつもむすっとした表情をし、横を向いていたスバルくんがぼそぼそと言う。
「あ、私は……ささっと拭いたし……だいじょう、ぶ……くしゅん!」
 大丈夫と言いつつくしゃみをしていてはどうしようもない。思いながらもさらにハンカチを動かしていると、いきなり、スバルくんが私の手を掴んでくる。
「え……スバル、くん!?」
「行くぞ……!」
 行くって、どこに!? 聞く間もなくスバルくんは私をサッと横抱きにして、土砂降りの雨の中に舞い上がる。たたき付けるような雨のせいで私は質問をする余裕を無くした。
 いったいどこへ行くと言うのだろう?

「ここだったら、シャワーにも入れるしいいだろ」
「……そうだけど……」
 なんでよりによってここなのだろう? 絶句しながら言うと、そっけなくスバルくんが言う。
「あぁ? なんでって……それは……屋敷に帰るよりここのが近いだろ。……それにいつだったかライトのやつも結構いいって言ってて……」
「ライトくん……?」
 スバルくんが私に行くぞと言った場所は、最寄駅前にある結構高級そうなホテルだった。まさかこんな高級ホテルに入るとは思ってもいなくて私はずぶ濡れの姿をフロントの人に怪しまれないかドキドキしてしまったけど、スバルくんがあらかじめ連絡してくれていたのか、特に何も言われることくすんなり部屋に上がることが出来た。
 問題なく部屋に入ったのはいいけれど、ホテルの部屋にふたりきりなんて想定外のことすぎて、どうしていいのか分からない。所在なく部屋の中をウロウロしていると、スバルくんが傍にあったソファにドカッと腰を下ろしながら言う。
「しかし、なんだかここ小奇麗すぎて落ち着かねえな……ま、それはいい……別に不都合はねえし。つうか、それよりお前、とっとと服脱いで風呂に浸かれよ」
「え!? お、お風呂!? で、でも……! スバルくんが先に……」
「馬鹿か? オレはヴァンパイアなんだ。お前人間だし、風邪とかひくだろ……っ……つうか、別に……心配してるわけじゃねえけど……くしゃんくしゃんやられるとうぜえんだよ」
 言いながらスバルくんは私の腕を掴み、立ちあがると強引にバスルームに引っ張っていく。抗うこともできずに私はそのまま連行されてしまう。
 部屋の中に設置されたバスルームは広い。高級ホテルなんだから当然だろうけど、それにしたって全面ガラス張りで中身が丸見えになっているのはやりすぎのような気がする。これじゃあ、お風呂に入ってゆっくりと温まるどころじゃない。
「早くしろ!」
 スバルくんは言いながらも、バスルームに入り、バスタブにお湯を張り始める。スバルくんはこのバスルームをヘンに思っていないのだろうか?
「あの……スバルくん」
 おずおずと口を開くと、スバルくんが面倒くさそうに返事を返す。
「あ? んだよ」
「その……良ければ……一緒に……」
 恥ずかしくて声が裏返ってしまう。バスルームの中にいたスバルくんが振り返り、怪訝な顔で私を見ている。まるで自分が浅ましいお願いをしているみたいで恥ずかしくて堪らない。
「一緒に……って……は?」
「だ、だから……ここ、全面硝子張りでしょ? ひとりでお風呂に入るの恥ずかしいの……だから、スバルくんも濡れてるし、一緒に入るのはどうかなって……」
 思わず一気にまくし立ててしまう。すると、ようやくこの状況に気が付いたのか、ギョッとした顔でスバルくんがきょろきょろとあたりを見回す。
「た、しかに……これじゃあ丸見え、だな。つ、つうか、なんで!? いや、そんなことより……だから一緒に入るって、わけ分かんねえだろ!?」
 途端に恥ずかしくなったのか、スバルくんの顔が赤くなっている。私もなんだかいたたまれない気持ちになって、ため息をついた。
「ふたりで入れば、一緒に恥ずかしいからまだ……その、我慢できる、よ。それに、スバルくんだってヴァンパイアだけど……雨に濡れてびしょびしょだから、着替えたほうがいいと思うし」
 そう言うと、スバルくんがイラついたように舌打ちをする。
「チッ……別に……お前の裸なんか、見ねえし! 見たくねえし!」
「わ、分かってるよ。でも……私、ひとりなら入らないよ!?」
 頑なに言い張ると、据わった目でスバルくんが私を見る。一瞬怯んでしまうけど、こればかりは譲れない。そう思いながら口を引き結び、スバルくんを睨み返すと、スバルくんが濡れた髪の毛を掻き毟りながら、吐き捨てる。
「ああ! くそっ! 面倒だ……!!」
 言うなりスバルくんは濡れたジャケットを脱ぎ捨て、シャツを脱ぎ捨て……次々と服をはぎ取るように脱いでいく。
「ほら! お前も……早く来いよ!!」
 バスルームの中からスバルくんが呼んでいる。
「うう……」
 言った手前、言うことをきかないわけにはいかない。私は傍にあったクリーニング済みのバスタオルを取り上げ、身体に巻きながら服を脱ぐ。さすがに裸で一緒に入ることはできない。バスタオルを巻き付けた状態で裸になった私は、なるべく彼と目を合わせないようにバスルームに入った。
「あの……お邪魔、します」
 スバルくんはむすっとした表情で浴槽に浸かっている。目は合わせてくれない。私も恥ずかしさのあまりにどうにかなりそうだと思いつつも、彼の足元のほうに静かに入る。
「……」
「……」
 酷く気まずい静寂が無駄に広いバスルームを包んだ。
 こんな風に、スバルくんとふたりでお風呂に入るのは、実は初めてのことだ。こういう時、どんな話をすればいいんだろう。ただただ戸惑うばかり。それはスバルくんも一緒なのか、彼はずっとそっぽを向いたままこっちを見てくれない。
「……お前さ」
 不意にスバルくんが話し出す。ハッとして俯いた顔を上げると、いつの間にかこっちを見ていたスバルくんと目が合う。まっすぐに私を見つめてくるそのふたつの紅い瞳に、私は動けなくなってしまった。
「うん……なに?」
 それに胸を高鳴らせながらも、悟られぬように静かに答えると、ぎこちなく言葉を切りながらスバルくんが言う。
「聞いたんだけど……その……お前、さ」
「うん」
「……その……オレのこと、世界で一番……好き、なん、だよ……な?」
「っ!? ど、どこでそんなこと聞いたの?」
 思いも寄らない言葉が出てきたことで、声のトーンが一段高くなってしまう。
「べ、別にいいだろ! どこだって!!」
 怒ったように言うとスバルくんはバシャン! と水面にこぶしをぶつけた。
「きゃっ!!」
 その水しぶきが顔にもろに掛かって思わず私は叫んだ。
「っ……お、お前が妙なこと聞くから……ったく、うぜえ……こっちこい!」
 スバルくんは強引に私の手を引いてくる。堪らずに手を突っぱねると、スバルくんの胸に当たる。素肌の感触に吃驚して力を抜き躊躇していると、そのままがっちりと背後から抱きすくめられてしまった。直にスバルくんの胸が当たっているのを背中で感じる。けれど、確か私はタオルを巻いていたはずで……。
「え!?」
 そう、いつの間にはタオルははだけ、水面にぷかりと浮かんでいたのだ。
「ちょ……ま、待って!!」
 慌ててそれを回収しようとすると、スバルくんの手がそれを阻止するように動いて止める。
「気にすんなよ……そんなもん」
「そ……そんなもんって、そういうわけには……」
「っ……嫌なのかよ。オレに……見られんの……」
「っ……それは……」
 嫌なわけない。だって私は、スバルくんのことが好きなのだ。そう、スバルくんが言っていたように、世界で一番……大好き。だから、別に見られるのは良いんだけど、でも色々と心の準備がいるのだ。
「じゃあ、いいだろ? お前の全て……オレに見せろよ」
 スバルくんは言いながら私のうなじに唇を落とす。その感触に思わず身をすくめる。全身に緊張が走っていく。
「オレにだけ見せるなら……別に、いいだろ?」
 その低く甘い囁きにも、身体が震えてくる。私に羞恥心というものがなければ今すぐに彼に抱きついて、キスをねだってしまいそうだ。
「スバルくん……」
 震える声でただ彼を呼ぶと、スバルくんが私の身体を抱き直した。お湯が静かに水音を響かせる。
「お前のこと……好きだ。だから……見せろよ。何もかも、全部……」
 私を抱くスバルくんの腕になおも力がこもる。私はその腕に抱かれてすっかりぼおっとなってきた。お湯が熱いのもある。けれど、それ以上にスバルくんの全てが私を熱くしているような気がする。
「……スバルくん、大好き、だよ」
「こっち向きな……」
「うん」
 スバルくんの優しげな声音に、静かに頷く。全てをさらけ出すことになっても構わない。恥ずかしいというより、今は……スバルくんと向き合って、この手で彼をしっかりと抱きしめたい……そんな気分だ。ゆっくりと振り返ると、いつもムッとしているような表情のスバルくんが優しく微笑んでくれている。
「スバルくん……」
 私が呼ぶと、スバルくんが酷く優しげにおでこにキスをひとつくれる。
「別に隠すようなもんでもないだろ? お前は……その……綺麗、なんだし……」
 そう言うなり、彼の唇が次々と降ってくる。もう一回おでこに、そしてこめかみに、頬に、最後に唇に……。
「んっ……」
 意外にやわらかなスバルくんの唇の感触がひどくこそばゆい。
「どうだ、温まったか?」
「温まったどころか、熱くなりすぎちゃったよ……」
 苦笑しながらスバルくんの言葉にそう返事を返すと、彼が意地悪そうに顔を歪める。
「それはつまり……冷ましてほしいって、そういうわけか?」
「なっ……そ、そういうわけじゃなくって……」
 慌てて否定するも、時すでに遅し。スバルくんは私の身体を抱え上げ、浴槽から出てしまう。
「スバル、くん!?」
「……お前の望むとおりに……してやる。今日は特別に……な?」
 いつになく大胆なスバルくんは笑いながらそう言い、再び私の唇に軽くキスを落とす。スバルくんはもしかして今日……最初からここに来るつもりだったのだろうか? そうだとしても私は……全然嫌じゃないし、むしろ嬉しい。そんなことを思いながら私は彼の肩に手を掛け、今度は自分から伸びあがってキスをした。